月別アーカイブ: 2017年4月

生涯、学徒で在りたいと

私はリーダー等には成りたくありません。

そのような実力をも持ち合わせてはいません。

18の歳に歯科医学の門を叩きました。

今、54歳になります。

未だに、

歯の何たるかをも、判っていません。

考えて、

考えて、

工夫して、

工夫して、

その繰り返しです。

歯科保存学の父と唱われる偉人に

G.V.Black先生の名は余りにも有名です。

歯科保存学を専攻した私にとっては、

神さまのような大業績者です。

先生は、このように書き記されています。

【専門職たる歯科医師はたゆまざる学徒であれ】

青年期の私は、この言葉に戦慄を覚えたのです。

私が仮に歯科医師でなければ、

熱く熱した珠鋼をひたすら叩く刀鍛冶か、

彫刻刀を手に石を叩き刻む石工に、

そのような人で居たいと思います。

多くの若い歯科医師や学生諸君が集まって下さいます。

当の私は、

何も考えていません。

ありのままの私を曝しています。

三枝デンタルオフィスは私の仕事の舞台です。

毎朝、私は此処に来て、

患者さんと向き合い、

共に、

悩んで、

考えて、

喜んで。

此処で歯科医学を学び、

此処で人生を学んでいます。

 

鏡に写った姿の美しいことを

【何の得にもならない】ことのなかに、

【美しさ】と云うものが在ります。

その美しさとは、

何故そうするのか?と問われても、

答えられないような【きまり】を、

毎日、毎日、繰り返し自分に課していった結果から、

自然に生まれてくるのだと考えています。

幼い頃からの【しつけ】のようなものかもしれません。

親からの一方的な小言を、

幼い頃は否応なしに受け入れねばなりません。

この理由なきしつけが、

美しさを作ったことに、

大人になってから気づく機会も多いでしょう。

ハシタナイ所作や考えは、

美しさとは対比に在ることを自覚する機会も多いはずです。

大人になれば、

当然のことながら親からのしつけは受けません。

今度は、自分との闘いが、

自分を鍛える手だてだと思うのです。

私は、しがない開業医です。

何も考えなければ、

毎日、毎日が、

単調なことの繰り返しでしかありません。

しかし、

少しでも良いから、

昨日よりは一歩でも前に進んでいたいと、

思ってきました。

それには【工夫】が必要です。

でも、

その工夫も、

普遍な所作から得た結果を

再度、自己評価することが大切です。

ですから一歩前に進むためには、

日常の日課的な所作を大切にすべきだと思います。

時々に京の街を歩きます。

何の気もなく眺めれば、

あぁ舞妓さんと思ってお仕舞いです。

でも、

私らの仕事においては【観察力】が大切です。

あら、先生、お出ででやすか?

と、過ぎ去って行った二人の後ろ姿からの違いに、

彼女らの日常の過ごし様の差が出ている事に、

気が付かねばなりません。

で、なければ、

私は単なる贔屓筋でしかありません。

遊びの中にも、

仕事に役たつ何かを探す感性を持つことが、

プロとプロとのお相撲みたいなものだと思います。

私は歯科医師ですから、

治療精度が向上できると、患者さんに喜んで頂けます。

また、

患者さんに対する心配りも、患者さんに喜んで頂けます。

この患者さんに喜んで頂だくことが、

私の原動力になっています。

当然、患者さんの側は私の工夫などお気づきになりません。

そこが大切な肝心処なのです。

相手に気づかれないように、

コツコツと自分と闘うことが、

自分を見つめ直すことが出来る唯一の方法だからです。

他人目をアレコレ気にしても、何も成長は期待できません。

鏡で自分の姿を写すこと。

鏡のなかで美しい姿で居られるように、

それが私の関心事です。

自宅前の公園の桜は、今が盛りです。

玄関戸を開くと、

一瞬、

眼を奪われてしまうほどの命の伊吹です。

週末から新潟です。

私の好きな信濃川に懸かる萬代橋が跨ぐように広がる【やすらぎ堤】。

雨の日も、

雪の日も、

私は毎朝、散歩するのが新潟での日課です。

写真の遠方に観えるのが萬代橋です。

その向こう側は日本海へと続いています。

週末のやすらぎ堤は、

恐らくこのような光景でしょう。

私は娘、息子ともに、

幼い頃から言い聞かせています。

父の骨は、

この萬代橋の下の信濃川と一緒にしてくれよ!

と。

子どもたちも生きてゆく上で、

何度も何度も壁にぶち当たるでしょう。

そんな時に、

私は言い聞かせています。

父は、いつも此処に居るから来れば良いよ。

父の声は耳には確かには聴こえなくても、

必ずヒントが閃く筈だから。

それが父の声だからと。

人の一生とは、

桜の花のように儚いものです。

それでも、

桜は毎年、毎年、

花を咲かせます。

娘の旅立ち

今回の娘の中学進学に際しては、

父親として初めて強硬なる持論を押し通しました。

先の家人との間には3人の子宝に恵まれました。

仕事優先であったので、

子どもの教育は任せきりでした。

特に中学への進学など学区内に通うことが普通だと思っていたのです。

むしろ、

附属中学などには却って偏見を持っていました。

私は私学の建学の精神による教育を信じている者ですから。

ただ私は、此処高松市で生まれ育った人間ではありません。

ですから事情に疎く、

また中学時代の学校帰りは街並みの空気に触れて、

友人たちとの会話の貴重な時間だと考えていました。

ですから、

歩いて家に帰ってくるものであり、

スクールバスでの通学には否定的な考え方を持っていました。

その経験から、

私は誤りに気づいたのです。

ノビノビ育てる筈が、

結局は塾通いの毎日。

いろんなご家庭のお子さんとの協調も、

大切な経験になるでしょう。

しかし、

これも時代の違いを認識しました。

息子は中学から私学です。

それはそれで大変でした。

どこも生徒の個性を伸ばすことよりも、

偏差値の高い学校への進学率を上げるに必死ですから。

ただ私からすれば、

県内の私学からこれは到底無理であり、

夢幻の戯れ言となるでしょう。

私学の独自性を全く感じませんでしたので。

この春、中学へと進学した娘と、

色々な私学の中学へと意見を伺いに出かけました。

子どもの意思を尊重しなければならないと云う台詞が在ります。

本当だと思いますし、否定しません。

しかし、

子どもの側においても、

親の意見に謙虚な気持ちで耳を傾けることも重要です。

以前の経験から娘にたびたび言っています。

他人の評価が全てではないよ。

他人も不完全な人間なのだから。

武者小路実篤氏の詩に、

人見るもよし、

人見ざるもよし、

我は咲くなり。

小さな花で構いません。

が、

確かに生きて咲いたと云う

花を咲かせる旅へと

娘は歩き始めたようです。

今日娘は県外の私学中学での寮生活が始まります。

早朝、塩握りをシッカリ、シッカリと握って、

娘の鞄の中に入れてやりました。

玄関戸の前の桜は満開でした。

嫌がる娘と桜を背景に並んで写真を撮りました。

車中の硝子越しに見える娘に手を振って、振って、

車が見えなくなるまで、

振っていました。

患者さんの仕事です。

入学式には行けません。

それも私の仕事です。

週末からは私は新潟です。

次、娘の顔を見るのは2週間さきの事です。

いやはや、どんな寮生活を送るのやら。

寮での朝食は毎朝、食パンで、

ジャム持参なのだそうです。

そう言えば娘はイチゴジャムが苦手な筈。

新潟へ行った際に、

ホテルオークラまで寄って、

娘贔屓のマーマレードを買って来ようと。

親バカでしょう?

でも、

そうこうしながら、

私も子離れできてくるんでしょうね。

 

決まった毎日

私はマリリンと出勤します。

診察の合間は、院長室にてお利光さんに待ってくれています。

30代の頃に娘に請われラブラドールレトリバーが

家族に一員になりました。

当の娘が世話するのは数日間のみ。

後は父親の仕事になるのが普通のようです。

が、

男の30代は仕事盛りです。

またこの間に私は離婚も経験しました。

孤軍奮闘の時代でも在りました。

私は大いに反省しています。

ラブリーと云う名のこのラブラドールレトリバーに

もっともっと大きな愛情を懸けてやれば良かったと。

マリリンの顔を眺めつつ、

ラブリーの表情が重なって観えます。

マリリンと呼びながら、

心うちでは、

同時にラブリーとも呼んでいるのが判ります。

もう後悔したくはありません。

私はマリリン中心の生活を送っています。

相手は犬ですから、

そりゃ規則正しいですよ。

私にとっても良い習慣ができたと

マリリンに感謝しています。

歯科医師の仕事

この女性はホワイトニングを希望されてお越しになりました。

30代の方です。

この女性のお人柄から感じる処があり、

数回、

診察のために来て頂いました。

で、

私はホワイトニングをお勧めしませんでした。

歯が白く変わっても、

この女性の歯での悩みが解決できるとは思いませんでしたので。

私の信じる治療方法にご理解頂き、

一緒に頑張って頂きました。

これが治療が終わっての今のこの女性の状態です。

歯の形態的なバランスも大きく変わったでしょう?

が、

もっと大きな変化が在りました。

美しい笑顔を取り戻したことは言うまでもありません。

これが歯科医師の仕事だと思っています。

私のお造りした【総入れ歯】

歯科医院であれば、

何処でも入れ歯治療を行うのでしょうが、

昨今のインプラント全盛の歯科業界から考えますと、

どうも、

入れ歯治療が上手くいってないのでしょう。

私の診療所へと入れ歯を新調にお越しになられる患者さんは

苦悩に満ちたお顔です。

痛くて噛めない。

ガタガタ動く。

擦れて痛む。

話しの途中で外れる。

発音しにくい。

等々。

インプラントが絶対に総入れ歯より優れているとは

私は考えていません。

インプラント治療の適応症と入れ歯治療の適応症は、

絶対に違うと断言します。

入れ歯造りが下手だから、

インプラントを奨められている患者さんの多いことに、

怒りを通り越して、

そういう歯科医師を哀れみさえ感じます。

左側が初診時に患者さんが掌の上にした総入れ歯です。

無論、造って頂いて2ヶ月ほどの、

使いようもない只の技工物です。

右側は、

私のお造りさせて頂いた総入れ歯です。

よく噛める人工臓器は、

観ためも違うと、

私の自己主張の塊でもあります。

人工物であっても、

活きたように輝いていると

お感じになりませんか?

人工物の中に、

職人は魂を注入するもんですから。

 

独りの時間を

元町からトアーロードの登り、

北野ホテルを過ぎて山本通りを東に入った処、

隠れ家的な喫茶店が在ります。

昔から此処で一服すると落ち着きます。

こういう場所が少なくなりました。

残念ながら高松市ではありません。

来週末から数日間は新潟ですから、

この週末も

この辺りにて散策でもしようかなどと考えています。

高松ではゆっくりとできません。

溜まった文献に眼を通したり、

研究の思案など、

落ち着いた心持ちでなければ、

到底、できるものではありません。

高松だと、

どうしても患者さんの事とか、

仕事が頭から離れてくれません。

昔から独り旅が好きでした。

それが抜けきっていないのだと思います。

目覚めた年頃

笑って下さい。

大学2年の秋の私です。

当時流行ったイタカジにハマって、

今観ればヘンテコ極まりない格好ですが、

当時は最先端?の若いボンクラ息子の典型であったことが

お判り頂けるかと思います。

このまま何事もなく過ごしていれば、

相当な酷い歯科医師になっていたでしょうね。

神さま、仏さまも大いに案じて下さったのでしょう。

勉強の方は、

その1年ほど先になって、

私に気づきの機会を与えて下さいました。

いっぱい勉強しました。

でも、

いっぱい遊びもしました。

後悔する事はいっぱい、いっぱい在ります。

でも、

その度に、

気づいて軌道修正する術も身につけました。

どの年齢にたっしても、

目覚める事って大切だと思いませんか?

 

1枚の写真

旧い知人からの封書が届きました。

大学時代の先輩の妹君です。

もう成人した息子さんとそのお子さんを二人も持つ

おばあちゃまになられたとか。

2年年長の先輩でした。

日大の法科を卒業されてから歯科大学へと進まれたために

本来の学年よりズット落ち着きのある好青年でした。

私が1年生の冬、

この先輩は本試験の日に突然に姿を消しました。

優等生であったことから、

試験が嫌で逃げたと云うことは誰も考えません。

同級生、クラブの先輩、後輩はもとより、

大学当局も総出で、

警察、消防の方々の手も借りての

大騒動であったことを覚えています。

ご両親の心労も大変なものでした。

この先輩には大変、お世話になったために、

私も相当に精神的に追い詰められていました。

ご自身のせがれの心配だけでも相当なものでしたでしょうに、

私を片時も離すことをされませんでした。

実は、

試験の前日、

仕送りを使い果たした私に飯を食わせようと、

ご自身の試験の追い込みも余所に、

私を連れて街の食堂へと。

食堂のテレビの画面に流れる石川さゆりさんの唄う

津軽海峡冬景色を鮮明に覚えています。

三枝、シッカリ頑張れよ!

後ろ手に振りながら先輩は雪を踏みしめて去ってゆきました。

これが先輩との最後の瞬間でした。

関係各署のご協力にも関わらず、

依然として所在は判りませんでした。

思い余った私は突然に馬鹿な事を口走ったのです。

京都の知人に霊感あらたかな高僧が居られます。

ご不快にならないで下さい。

科学を学ぶ者失格かもしれません。

でも、私は行きたいです。

ご両親と共に、

新潟発の夜行列車に乗り、

京都駅のホームに立っていました。

で、

高僧が開口一番。

息子さんはお母さんの元に帰ってきます。

場所は新潟市大学付近○○橋の横。

3月の○日の○時ころ。

ご両親が大声で泣き叫び、

ありがとうございます、ありがとうございますと、

高僧の手を握り、

私は腰を抜かさんばかりに安堵したのを覚えています。

で、指を折って、その日を待ちました。

みんなで迎えに行ったのは言うまでもありません。

私なんぞは、

あれだけ飯をタカったのを忘れ、

ぶん殴ってやると意気込んでいたのです。

ご両親ですか。

じっと、じっと、暖かい眼差して立って居られたのが印象的でした。

予定の時間がきました。

橋の向こう側からとぼとぼと歩いて近づく先輩の姿は見えません。

落胆する心。

ふと、

視線を落とした時、

氷で覆われていた信濃川も水面が割れて、

言葉になりません。

確かに先輩は、

私らの処へと帰って来られました。

綺麗なお姿でした。

そこからは言葉になりません。

時計は私と別れた後の15分頃を示していました。

山梨県の故郷へと息子さんと共に帰郷された父上は、

菩提寺に独り息子の生涯を刻んだ鐘を寄贈しまもなくお亡くなりになりました。

この写真は、鐘を寄贈された際に当地へと訪れた私たちに、

一席設けて下さった際のものです。

私の左側がお母上、

右手に父上が居られます。

私が二十歳の頃です。

今でも石川さゆりさんの津軽海峡冬景色を聴くと

この先輩を思い出すのです。

超難症例の手術の際にバックミュージックをかける癖があるのですが、

石川さゆりさんの津軽海峡冬景色が在るのは言うまでもありません。

大勢の方々に育てて頂き、今日が在ります。

当時はうら若き美少年?であった私に、

ある種の覚悟が、

色々な経験で身についたんだろうと、

この懐かしい写真が、

思いだしてくれたように思います。