月別アーカイブ: 2017年11月

ジャンプ

日本歯科大学44回卒業と言えば、

私らからすれば、

直立不動の最敬礼もので、

とてもじゃないですが、

全く頭が上がりません。

とっくの昔に創立100周年の記念行事を終へ、

今の学生諸君などから、

76回卒業の私らの世代は、

既にお爺ちゃん扱いですから。

今朝、

この大先輩にお電話をいれさせて頂いたのです。

ぶった曲げたのです!

お歳暮を頂いたからです。

本来であれば、

私が先に送らねば不敬罪に当たります。

しかし、

先生のご子息は同級生でもあり、

また、

唯一心のゆるせる親友であることから、

夏と冬の贈答品は互いに止めようと云う話しをしていたのが、

悪かった!

それは私と友人との間の話しですから。

歯科医学の門を叩いて最初の師匠は、

間違いなく、

この浅見 裕先生であることに相違ありません。

伝統の浅見歯科医院は

看板は下ろしましたが、

ご子息がキチンと大学教授として、

父上の歯科医学への熱い想いを引き継がれいます。

受話器の向こう側に、

懐かしい先生の声に胸が熱くなりました。

三枝君、

いや三枝先生か。

毎日、思い出しているよ。

何か美味しいもの食べて欲しくてね。

私は泣いていました。

18歳の頃、

歯科開業医に、

特別な歯科医師が存在することを

先生を通じて知りました。

生涯の師匠となった内藤正裕先生も、

若い時分に、

霞ヶ関の納富学校にて、

当時ライターであった浅見 裕先生の指導を受けたと、

懐かしいお顔で、

仰っておられました。

私と多くの歯科界の巨星との縁を創って下さった方が、

浅見 裕先生ご夫妻でありました。

私のデスクの脇に、

先生から頂いた色紙を置いて、

毎日、

眺めています。

【柳に風】

18歳で、

歯科医学のいろはも判らない私に

頂点を見ろと、

心構えを伝えて下さった最初の師匠です。

それからと云うももの、

お月様へぴょんぴょんジャンプする兎が

私の30年でした。

どこまでジャンプして良いのやら。

テッペンは全く見えません。

私の好きな讃美歌の中の【栄光の讃歌】が在ります。

出だしの、

天のいと高きところに~。

生涯、テッペンが見えないことを

この頃判るようになりました。

愚か者でも構いません。

それでも私はジャンプし続ける積もりです。

 

 

もう一度立ち止まる

歯肉を切開開いて、

骨と痛々しい歯の状況を

直接に確認した上で、

昨日、

とある患者さんに、

歯の残せないことをお伝えしました。

多数の歯です。

悲しくて、

悲しくてなりませんでした。

昼前の出来事です。

それから一時も頭から離れません。

53歳の女性です。

いくらなんでも、

総入れ歯は早すぎる!

なんとか出来ないモノかと。

事の大小を問わず、

私の仕事は、

悩みと、

考えること、

背中合わせの毎日です。

患者さんの症状が頭から離れることはありません。

フラリと、

暗い夜道に教会の尖塔が

車の窓越しに見えました。

ハンドルをターンし、

初めて訪れる教会のドアを

おそるおそる開きました。

マリアさまが居られたので、

カトリックの教会であることが判りました。

薄暗く、

冷たい礼拝堂の最後尾の椅子に腰掛けました。

どのくらいの間、

座っていたのかは覚えていません。

今朝、

思いたったのです。

昨日の患者さんに電話しようと。

できれば、

今日の最後の患者さんの後にでも

お越し頂きたいと。

もう一度、

指先にて丁寧に歯肉の感触を確かめよう。

もう一度、

もっと精密なレントゲン撮影方法を考えて、

丁寧に骨のとっかかりを探してみよう。

この患者さんは、

恐らく、

昨夜は悲しい想いで、

床に就いたに違いありません。

萎縮する骨の原因は、

患者さん自身に責任はありません。

歯科医師たる私は、

そう確信しています。

と言って、

現在の医学では、

歯の根の周囲を

いっぱいの骨で満たすことはできません。

考古学者が、

広大な砂漠から、

あるヒントに閃きを得て、

砂を丁寧に筆で払って、

太古の遺跡を顕にするようなもの。

それが、

このような患者さんに対する手当てだと。

受話器の向こう側から、

患者さんは仰いました。

必ず参ります。

私の能力を振り絞るのは、

今からだと、

ある覚悟を決めたのです。

最後の手前で、

もう一度立ち止まる。

それが必要な医師の慎重さだと。

 

奥歯のインプラント修復

この頃、

15年降りくらいに、

奥歯のインプラント修復の一部を

スクリュー固定式に変えています。

特に、

インプラントにての1本だけの単独で修復する症例です。

修復対象歯以外の歯の噛み合い面を見て下さい。

人体の中でも最も硬いエナメル質が摩り減って

歯の外形は損なっています。

よく観ると、

摩り減り方に規則性が在るようです。

所謂、

噛み癖ってヤツですね。

このような患者さんに

セラミックやジルコニアなどの

使用は控えるべきでしょう。

延性のある金属が最適応だと思います。

噛み方は色々です。

咀嚼する時の噛み方。

睡眠時の食いしばりの際の上下の歯の接触の仕方。

全く違います。

金属と云う延性材料の方が

身体に併せてくれることは、

私ら治療サイドからすればありがたいのです。

人工歯のど真ん中に煙突のような孔があるでしょう?

ここに太いスクリューが入り込んで、

インプラント体と人工歯を連結します。

メンテナンスの際には、

スクリューの固定具合を確認するのです。

大きな負荷が人工歯に懸かれば、

スクリューは緩みます。

その際には、

噛み合わせの調整が必要だと云う合図です。

また、

インプラント周囲の歯肉を厳密に清掃したい時には、

人工歯のスクリューを緩めて、

人工歯を外し、

清掃器具を直接インプラント周辺まで

行き綿ら去ることができます。

金属の歯がグレーであるのは、

鋳造しての、

研磨前のそのままの状態だからです。

試適して、

噛み合わせ面の微調整を

これから行って、

最終研磨のあと、

マイクロ粒子のガラスビーズを噴射して、

せっかくの研磨面を曇らせます。

噛み合う面と向き合う歯が接触する部分が、

研磨されて光沢を帯びます。

私が当たって欲しい処だけが光るのは稀です。

顎の骨は大きくたわみます。

当たって欲しくない部分が光る場合って多いんですよ。

そこは大きなストレス箇所ですから、

調整削除します。

時代の先端は、

審美、審美に一辺倒!

でも、

私は安定して経過の方を選びますね。

今こそ大学の存在価値が問われると

究極のところ、

歯科治療の長期成功は

【炎症と力のコントロール】に

尽きることを実感しています。

で、

炎症のコントロールには、

患者さんの全身状態と密接な関係にある唾液との関わり。

力のコントロールには、

個々の歯の並びの連続性を保つこと。

しかしながら、

これらを満たすことは

とてもとても大変な作業です。

全体状態の把握については、

医師の眼を持たねばなりません。

患者さんの健康への関心度合いも

避けては通れません。

健康維持には、

生活の質の向上が必須ですから。

睡眠の質、

食生活、

ストレスとの上手な付き合い方、

色々な要素が絡み合うことを

我々、

患者さんともに、

大きな意識改革が必要です。

力のコントロールにおいても、

生活の質の向上は、

大きな要素になります。

複雑化した社会生活を営まねばならない昨今、

ストレスのない生活などできないでしょう。

ストレスの発散の1手段としての、

睡眠時の【噛み締め・食いしばり】を

私は否定しません。

この自然行為を防止すると、

ストレス発散の手当てを失うからです。

が、

歯の番人たる歯科医師にとっては、

厄介な行為であることは間違いありません。

その矛盾に対する手当てを

その患者さん個人個人に対応することが、

歯科医師の腕の見せ所と思います。

とは言え、

50半ばになった私も、

日々、

難問に直面し四苦八苦しているのが現状です。

歯科大学の使命が、

これらの研究にあると、

私は実感しています。

私の母校である日本歯科大学は、

我が国における最初で最大の歯科大学です。

今こそ、

母校であるからこそ、

それらの問題解決のために

研究者全体が気づいて欲しい、

そのように思います。

超高齢化社会の現実に

市井の歯科開業医である私は、

患者さんに寄り添うことが使命だと、

肝に命じて来ました。

ですから、

流れ作業的な効率的な歯科治療だけは

避けて、

患者さんに入り込む姿勢での歯科治療を行ってきた積もりです。

その結果、

患者さんの置かれた家族環境なり、

精神状況を、

私の診療所で吐き出すことで、

患者さん側は気持ちが楽になられ、

私の側としては、

諸般の事情を鑑み、

口腔の健康維持に努める手当てを模索して来ました。

最近では若い世代の患者さんが大勢いらっしゃいます。

勢いあるエネルギーに満ちた人たちを

羨ましく感じることもあります。

しかしながら、

彼らもいつか歳老いることを

忘れてはなりません。

長い期間の主治医として大勢の患者さんと関わり、

老いることを

肌身に痛いほどに感じています。

親の介護する60代の多いこと。

配偶者の介護に四苦八苦する80代の多いこと。

当然、

介護する側の方も、

若い頃には想像もしなかった

体力の低下、

持病との付き合いであったり戦いに、

過ごし方に工夫を強いられいます。

私は歳をとって老いることが

恐ろしくて、

恐ろしくてならなくなりました。

将来の自分を観るようで、

どうしたモノかと、

秘かに心を悩ませています。

歯科治療を行うに際して、

老いることと共存できる修復する。

それが私の大きな関心事になったのは

自然発生的な事です。

法隆寺や東大寺などの古い建造物は、

人間の寿命を遥かに越えた

長い風雪に堪えて、

今日の私たちに、

その姿を見せてくれます。

若い歯科医師たちに、

【考える修復】と云う言葉を発して来ました。

私自身も、

常に、

どうやって治すのか?

と共に、

どうしてこのような状態になったのか?

なぜ?なぜ?

考えながらの診療生活を過ごして来ました。

しかし、

考えを、

もう一歩、

前へ進める必要があるようです。

老いとの共存できる歯科治療。

超高齢化社会に歯科医学が貢献できる手立てが、

そこに在ることは間違いないでしょう。

 

人がやらないことをする

人がやらないことをする。

振り返って観れば、

私の生き方は、

そのようなモノだったと思います。

他人から観れば、

とても効率の悪い生き方かもしれません。

しかし、

それは自惚れやプライドの高さとは

別の意味合いでの、

自信を得たように思います。

謙虚さは失ってはなりません。

しかし併せて、

自信を持つことも大切であると思います。

謙虚さと自信を

併せ持つこと。

そうでなければ、

私の仕事などのような

人の身体を触ることはできませんもの。

規則正しい生活と、

素直な物事の見方、

感謝の気持ちの

積み重ねが、

少しずつ

そのような自分を造るのだと思います。

選択枝が2つ在る時には、

困難で、

苦しい道を選ぶこと。

ある時から、

それが私の決定基準になりました。

物事の結論など、

誰にも判りません。

自分の人生です。

他人の手に委ねるのではなく、

自己責任を持つために、

自信を得ることは

とても大切な要素だと思うのです。

シンドイ作業

昨日のことです。

診療所の電話が鳴り響いていました。

宮田君が患者さんとのお話しの最中でしたので、

珍しく、

私が電話の受話器を採りました。

女性の方でした。

歯の根が折れて抜歯したのが2、3年前であるとのこと。

その後、

ブリッジにて治療なさったこと。

直ぐに外れるブリッジであること。

その方のお話しから、

状況を推察すると、

以上の様でした。

女性の申し出は、

インプラント治療を希望されて居られること。

で、

安いので1本幾ら?

が、

その方の関心の中心であることが

直ぐに判りました。

私は安易なインプラント治療を否定しています。

歯の根が折れて抜歯に至り

数年経過した上の前歯の骨の

悲惨な姿は、

CT撮影するまでもなく

骨を扱ってきた歯科医師なら

判らない筈はありません。

骨の幅を増大しなければ

インプラントを受け入れる余地はないでしょう。

また、

上の前歯の修復治療の長期の成功は、

奥歯のシッカリとした支持が必須です。

簡単に外れるブリッジしかできない歯科医師の

手に委ねられた患者さんの口腔の状況も

容易に想像できるのです。

木を観て森を観ず

と云う言葉が在ります。

治療においても同じこと。

この女性への返答ほど、

私を困らせるモノはありません。

丁寧に、

紳士の対応でと、

そう、

思っています。

できるだけ、

明確でないように、

インプラントではなく、

ブリッジも考えにいれて、

他の歯科医院へと、

誘うように、

注意しながら、

お話しさせて頂きつつ、

相手が受話器を置くように

進める。

コレは結構、

シンドイ作業なのです。

無心に綴る

歯科技工士さんや、

歯科衛生士さんからの声を聞き、

私の診療所へお越しになられる

患者さんが、

少なからず居られます。

私は、

患者さんをご紹介して頂いた

歯科技工士さんや、

歯科衛生士さんを知りません。

ですから、

余計に、

新しい出会いの際においては、

今でも、

緊張するのです。

その方たちの

お顔を潰せませんから。

新しい患者さんの大半の

お口を開けて頂いての

私の心内。

コレは困った!

呼吸を整えるのが常となりました。

自分の持つ

全知全能を傾けて、

丁寧に、

丁寧に、

壊れた咀嚼器官の修繕を

綴る。

ただ、

無心で、

修繕に、

自分を封入する。

それが私の毎日です。

 

内藤正裕先生のこと

若い歯科医師の先生方からの

相談が増えたからでしょうか?

最近、

師匠のことを

何時も

頭のど真ん中に置いて

過ごすようになりました。

私の歯科医師人生を決定的に変えて下さった師匠が、

内藤正裕先生です。

私の若い時分から

先生は

知る人ぞ知る、

歯科の名工と言われていました。

看板のない歯医者さん。

電話帳に電話番号を載せていない歯医者さん。

日本一高い歯医者さん。

当時の私には、

その程度の認識しかありませんでした。

大学院で指導を受ける新米歯科医師だった私は、

大学教授の治療が最高であると信じていました。

ですから、

私が生涯の師匠と仰ぐことになる

内藤先生の仕事に触れた瞬間の

驚愕の凄まじさは、

皆さんには想像できないほどに、

天地がひっくり返す位だったのです。

ど心臓を持つ私です。

一面識もないのにも関わらず、

私は先生の診療所のドアを叩いたのです。

東京の麻布の閑静な住宅街の

小さな超高級マンションに先生の診療所が在ります。

田舎者の私は、

銀座などの大きなビルのテナントに診療所があることが、

成功者の証であると信じていました。

ですから、

住宅街のマンションの一室にある歯科医院?

意外に感じたのは、

間違いなく、

私が田舎者の証です。

で、

私は診療所のあるマンションの周りを

何度も何度も

廻ります。

私でも緊張したからです。

マンションの入り口をくぐるにも

勇気を必要とするほどに、

超高級さを圧倒する【気】が放たれていました。

内階段を登り、

金属製の古いドアの横に

小さく、

内藤デンタルオフィスと、

英語表記されているだけに、

これまた、

私は驚愕したのです。

このドアを開いた後から、

私は生涯が変わるなどとは

考えもしませんでした。

今でも鮮明に覚えています。

ドアの向こうには、

歯科医院はありません。

小さな狭い空間は、

丁度、

ニューヨークのセントラルパーク周辺の

古い石の建物にある超高級アパートメントの

玄関空間を思い出したのです。

鼻髭を生やした、

糊の効いた半袖のワイシャツにネクタイ姿で、

ニコニコ顔で、

出て来られた先生との

最初の出会いから30年近く経ったのです。

私が目に見えない力を信じる訳の一つに

先生との縁を頂いたことが在ります。

レオナルド・ダ・ビンチを

万能の天才と呼ぶように、

私は先生をダ・ビンチと

重ねて観ています。

先生の能力と知識、

そして探究心の旺盛なる人を

私は今でも知りません。

先生と同じ時代に生きたことを

私は誇りに思っています。

私の技量、知識のほどは、

今でも、

先生の足元にも及びません。

そういう意味合いにおいては、

ダ・ビンチの言葉通り、

師を凌駕できない弟子は不幸である

と云う代表格が私だと思います。

ただ、

面識ある無しし関わらず、

歯科医学を愛する者への

温かい迎えの精神だけは、

先生と同一レベルできる

唯一の手段であると思いたち、

若い歯科医師の先生方と接しています。

 

 

 

時代の名機

日常の治療の過程を

写真撮影して記録することが、

当たり前になったのは、

大学院生時代の

指導教官からのキツイ指導の賜物であることは

間違いありません。

治療の際には、

見えている積もりであったにも関わらず、

あとから、

見落としていることに、

気づくキッカケになったのが、

治療の写真記録です。

見えるものと、

診えるモノの違いに気づいたのです。

数年前からデジタルカメラの時代になりました。

シャッターを押した瞬間に、

画像が確認できることほど便利なモノはありません。

私の写真も、

デジタルカメラによるモノになりました。

レンズのトラブルにて、

ある日、

その日の治療の記録が出来ないことに

成りかねない状況に陥りました。

で、

棚の中に仕舞いこんで、

眠っていたメディカルニッコールを思い出したのです。

このカメラとレンズは、

当時の医学、歯学の世界においては、

記録する手段の道具としては

絶対的に安心して使えると

評価されていた名機です。

非常に高価なレンズでした。

20代後半の頃、

大学院生の私は安定した収入がありませんでした。

夜間診療と休日診療のアルバイトにて、

暮らし向きをたてていたのです。

この名機を購入するに際して、

大学の歯科材料屋さんから、

月賦払いにして貰ったのです。

アルバイトの翌日に、

手当ての一部を持って材料屋さんへと支払いに行く。

これが私の週ごとの

決まりごとになりました。

懐かしい思い出です。

それ後、

私の診療生活とメディカルニッコールは

切っても切れない間柄になりました。

その関係の終わりは、

デジタルカメラの出現によって訪れたのです。

数年降りに、

思いたったかのように、

眠りから起こされたメディカルニッコール。

彼にとっては

迷惑、勝手な奴と云うことでしょう。

デジタルカメラとメディカルニッコールの相性を考えず、

私は両者をドッキングしたのです。

で、

驚愕し、

デジタルカメラの便利さに感心すると共に、

当時の自分のシャッターボタンを押すと云う

単純な行為ですが、

そのことに懸けるエネルギーを思い出したのです。

両者は見事に適合しました。

デジタルカメラでは決して得られない、

大拡大の画像が、

眼前に拡がったのです。

が、

その画像を得るためには、

シャッターボタンは決して気軽に押せないと云う

絶対的なタイミングが必要であったのです。

私の毎日の診療は、

マイクロスコープによる大拡大でのスタイルが

普通になりました。

マイクロスコープ付属のデジタルカメラでの撮影も

慣れっこになっていたのでしょう。

しかし、

時代の名機の画像は、

時代の最先端のモノを

遥かに凌駕していたのです。

私の診療代の横には、

歯科用デジタルカメラと、

大きなバッテリーボックスと長いコードの附いた

メディカルニッコールが置かれるようになったのです。

歯科治療の際しても同じこと。

新しい治療が、

より優れているとは思いません。

そんなことを

再認識させてくれた

時代の名機がメディカルニッコールです。