日別アーカイブ: 2016年3月4日

男子の本懐

ズーと昔の事です。

【男子の本懐】と云う小説に、

大いに感動した記憶があり、

数年に1度の程度にて、

頁を捲る私がいます。

また、

【山本五十六】贔屓の私です。

元帥の死亡診断書が公開された際に

多くの憶測を呼びました。

自死か銃死かの真意は判りません。

が、

椅子に座し、

汚れなき白手袋の両手で

剣の柄を確りと支えた姿で眠る元帥であったことは

紛れもない事実です。

仮に、

元帥在命で終戦を迎えたならば、

歴史に、【もしも】はありませんが、

恐らく東京裁判において、

絞首刑であった筈でしょうし、

身柄を拘束される前に、

阿南陸相のように割腹自決したで在りましょう。

【陽性】イメージ強い元帥ですが、

南方での名誉の戦死でなければ、

色彩は変わっていたかもしれません。

【あの世へも、で、この世にも未練云々、心は二つ、身はひとつ】

と云う、

元帥から旧友に宛てた名高い手紙を

コレもまた随分と前に眼にして、

私も共感できる処、大いに在り。

伊集院 静氏の作品での、

【人生には様々な坂が在るが~】

の名文に、大いに共感し。

其れは【男】でしか、

理解し得ない意味を味わうのです。

 

先の続き

人に話をする際には注意してと云う考え方には

大いに共感できます。

其れは【受けとる側】の様相により、

此方の意図とは違って伝わる可能性が在るとの

慎重さの為せる技である事ですから。

が、半面、

そうなんでしょうか?

【個性】と【普通】の境界について

矛盾しないのでしょうか?

【無難】と【チャレンジ】の境界について

矛盾しないのでしょうか?

【ニュースキャスター】と【評論家】の境界の【あやふやさ】に

違和感は無いのでしょうか?

【受けとる側】の正に教養の差を

加味されない【意見】に振り回される状況を

【ポピュリズム】って云うのではないのでしょうか?

【ポピュリズム】と【自主独立】の間には

大きな隔たりが在ります。

これ等を感じとるセンサーを育んでくれるのは、

読書と、それに裏付けされた経験だけだと

私は思っています。

 

書に親しむ意義

歯科医に成り立ての私が

歯科の【いろは】の手解きを受け始めた

大学院生の頃に、

既に準教授であった山口先生から、

最近、読書の話を伺います。

先生が大変な読書家である事を

最近、知ったのです。

また、

好む文体や作風においても、

相手を認めながら、

で、

自分の質との違いも感じつつ、

異なる趣に対して【敬意を払う】

心持ちを実感しています。

先生は中学生の頃に既に

大江健三郎氏の作品に親しんで居られたとの事。

恥ずかしながら、

私も高校生の時分に【大江作品】にチャレンジし、

【ちんぷんかんぷん】で、挫折した経緯がありましたので、

先生の話に、ジッと耳を傾けたのです。

また、

先生は太宰治が贔屓であるとの事。

此処に、

ヤット先生の独特のダンディズムの一端が、

ホンの少しだけ判ったような気がしたのです。

本に親しむ習慣ほど大切なモノはありません。

座学を否定してはなりません。

無限の創造力を育くみ、

知識の泉となり得る宝庫が、

読書です。

実体験の裏付けや、

判断の物差しになり得る意識を

育んでくれるのは、

読書です。

ですから、

親しむ本の種類や作風により、

読者側の【匂い】を感じる感覚器にも

なろうかと、思っています

読書離れが著しいと言われる昨今ですが、

時代だと云う一言で解決できる所作ではないと思います。

【過去を笑う者は、未来に泣く】

古代ローマ時代のシーザーの遺した台詞です。

情報過多のコレからの時代において、

尚更のこと、

古典を学ぶ必要性を感じます。

その上で、

現場に出でての多くの場数を、

思考しながら経験を重ねることが

本来の教養の身に付け方だと思います。

が、

知識と、知恵と、精神力とは

全く別物であることも

私は年齢を重ねて実感しています。

反省を繰り返す人生でありました。

これは、私個人で行う所作であります。

【考える人】で在り続けたいと思います。

【学ぶ】を続ける人で在りたいと思います。

と共に、

【自主独立】の人で在りたいと思います。

決して自分を誇張し観せる気持ちなどありません。

感じ方は、人それぞれ在ろうかと思います。

但し、人自身もそれぞれである事も事実です。

 

 

 

私の原点

高校3年の頃に、

この【歯の写真】と【沿革】の文章を

暗記できる程に、

何度、観たか判りません。

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商家の跡取り息子であった私が、

秘かに【歯科】を志し、

数多くの歯科大学から、

日本歯科大学を志望した理由が

この【沿革】に認められています。

私が今日まで、

ぶれずに過ごせたのは、

正に、コレです。

人の一生に影響を及ぼすほどの

インパクトある文章です。

作者を私は知りません。

が、

文体から恐らく、

現学長である中原 泉先生であろうと想像しています。

簡潔で、

ストレートな流儀に、

私は、その様に思っています。

私が人として決して人格者ではないことは

十分に自覚しています。

が、

【歯科医人】としての

独特の流儀を主張していることに、

異存を唱える業界人は居ないと、

自負しています。

私は、

人としての生涯と、歯科医としての生涯に、

全くズレと隙間はありません。

歯科医が私の人生の全てであります。

で、

その原点が、此処に在ります。

遊び気分

根の治療において、

最近の私は、

【神経の入り口を探す治療】から、

【根の先の神経の先っぽを触る治療】へと

変わって来ました。

私が歯を殺す治療はしませんので、

前医の治療の再治療と、死んだ歯の治療だけですが。

【マイクロスコープ】の使い方も

ドンドン拡大しています。

と、共に

私の疲労具合も益々。

が、

面白くて、ヤメラレナイってのが

本音の処です。

本線

友人である歯科医との会話にて、

私の発言に驚いて、

「そうだね!俺もその様に考えてみるわ」

と。

私の歯科に関する考え方の柱は、

次のようなモノです。

歯科医本人の技術の向上に於いては、

常に自己研鑽しなければならない。

その中で、

私ら先人は、積極的に若い歯科医に対して

導き、

支へ、

自己の技術を隠すことなく観せ、

所謂、教育ですね。

将来、地域の歯科医療を担う若い歯科医に

協力を惜しんではならない。

其れとは別に、

技術では解決出来ない部分、

此処を、

材料の開発と、

治療方法の開発によって

解決を図る。

此れが研究ですね。

此れが、私の人生の【本線】です。

新潟市を貫くように流れ、

日本海へと広がる【信濃川】。

日本一の大河です。

が、

水は明らかに、海へと続いているのですが、

眼には、

その流れが緩慢で見えません。

人の人生とは、

この【信濃川】の流れのようなモンだと、

最近、想うのです。

支流へも、

水が行き届く手当てなり配慮、手間も必要です。

が、

逆に、

自然と行き渡るべき処へは、

水は流れてゆく性質である事も

事実です。