月別アーカイブ: 2013年9月

インプラント治療の価格について

 患者さんの中には
治療費用を
極力、低く抑えたいとの
要望が強すぎて
此方としても
何とかお役にたちたいとは
思うものの、
此れでは、
治療にならないと
頭を抱える時が在る。

 特に其の要求が
顕著であるのが
インプラント治療である。

 患者さんの側も
インターネットの歯科のホームページで
色々な情報を仕入れている。

 実績、特徴のない歯科医院は
低価格で勝負するしかないので
インプラント治療も
最早、ダンピングの昨今である。

 インプラント治療と云うのは
一種の移植治療である。
材料と手間を惜しんで
良い結果が得られるとは
長年、
インプラント治療に携わった者としての
正直な本音である。

 又、インプラント治療の成否は
インプラントを入れた部分以外の
周辺環境に
大きく左右される。

 インプラント治療以外の
歯科医学に対する
知識と技量が
インプラント治療の成否を別ける。

 私も子育ての最中で、
何かと物要りでは在るが、
健康に対する投資について
鑑みた時に
特にインプラント治療については
価格と予後は
比例すると考えた方が賢明であろう。

 上手くないインプラント治療にて
却って、
失うものは大きい気がしてならない。

昔の匂い

 久方ぶりに
大阪から神戸へと足を延ばした。

 台風の後先にて
通りの落葉が石畳に張りついて
ともすれば
足元が危ない坂道であった。

 北野坂を上り
山本通りを
もう少しの処に在る
赤テントの
カフェ.ド.パリのテラスへ
腰をおろしたマリリンと私である。

 肌に冷たい海からの風に
昔の様に
熱いカフェオレとでもいきたかったが、
生憎、最近珈琲を辞めた私は
酸味の利いた紅茶を啜った。

 幼い頃より
馴染みの在る風景も
震災の後は
随分と
近代的な味気ないものに
変わっていくが、
此の辺りだけは
当の私だけが
年老いていくだけで
鼻腔に入り込む
街の匂いも
以前のままである。

 慌ただしい日常を
忘れさせてくれた
至福の一時であった。

歯科医学と料理道の共通の匂い

 旨いものに目がない私である。
但し、此の旨いものであるが
私は他人の評判や
グルメ本などは
当てにしない。

 通り歩きの
セレンディピィティー、
気の向くままの
偶然の産物的な
店の前の
ある空気を重要視して
ふと立ち止まり
木戸を開けて
カウンターへ
腰掛ける。

 私の直感は
まず外れる事はない。

 但し、
私は所謂グルメではない。

 素材をどの様に手間をかけての
下仕事を施したのかの
職人仕事に重きを
置いている。

 家でも
自ら米を磨いでいる。

 手当ての仕方で
炊きようも
違って来るからだ。

 手当ての仕方で
身体にも
優しい命の源となるのが
食の真髄である。

 私は越後の白い米を
こよなく愛する者である。

 コシヒカリは
白くなくて
どうしてと云う者である。

 素人の聞きかじりの
玄米食や五穀米健康法など、
阿呆のくそ食らえである。

 舌を肥やし、
五感を豊かに鍛える
至高の修行が
料理である。

 歯科医学と料理道に
相通じる共通の
特有の匂いを
感じるからこそ
私の食への拘りも
素人には判るまい。

週末日記

 台風で大荒れの天候の最中、
週末を関西で過ごす羽目となった。

 なぎ倒される通りの自転車。
アスファルトをうち叩く様な
凄まじい雨脚のなかを
転がる様に跳ばされてゆく
骨の壊れた笠群。

 ビルの屋上に設置された立看板が
風に煽られて
今にも暗黒の空へと
舞い上がらんとする
夜も更けた中を
宿へ入った。

 頭の先から全身
ずぶ濡れであった私は
部屋から浴室へと直行した。

 今宵の宿は
マリリンと伴である。

 最近はペットと同伴可能の宿が
増えたようである。

 私の様な者には
大変有り難い。

 風呂を終えた後に
階下のスペイン料理店へと
マリリンを従えて
顔を出した。

 暴風雨に怯えたマリリンであったが、
今は足元で
自分の料理に舌鼓、
極楽至福の時である。

 小腹を起こして
部屋へと帰って
ソファで並んで
深夜まで
テレビに明け暮れた
関西の夜であった。

自己制御

 腹の虫が治まらない時が
誰しも在るのではないだろうか。

 その様な時には
若い時分には
ものにあたったものである。

 壁や硝子が
凄まじく壊れ散った後、
後片づけの後味悪さが
一層、
怒りを増幅させていた。

 何かと煩い昨今である。
この様な真似をする人に対して
事故制御能力の欠けた人と云う
評価になるのであろう。

 私は若い男であるならば、
其れで良いと思っている。

 若い男のエネルギーの爆発は
成功への必須条件である。

 若い男であるならば、
時には、
自身を制御出来ない位の
エネルギーがあった方が良い。

 大変、気の毒な世状である。
それ故に、
去勢されたの如し草食系と呼ばれる
骨の無い男が増えたのであろう。

 私は既に初老である。
悲しいかな、
生物体の定めである。

 昔、テレビのCMで
岡本太郎が
【芸術は爆発だ!】と、
叫んでいたが、
歯医者の仕事も
自己のなかに
創造性を封印し、
凝縮させて
指先から
エネルギーを
照射せねば
良い仕事は出来ない。

 どの様な仕事も
命をかけて取り組むならば
皆同じような気構えで
自分のなかのエネルギーの
爆発方法を
模索し続けるのだろうが。

 其れでも、
初老は初老である。

 怒りを堪えなければ
みっともない事
この上なしである。

 この様な時に私は
役所広司主演の
【連合艦隊司令長官 山本五十六】のDVDを
繰り返し、
観ることにしている。

 あれ程の不条理のなかを、
自己制御しつつ
最後に散って行った
元帥を思うとき
抑えねばと
自分に言い聞かせて
煙草に火を点けている。

灯台基暗し

 タイトルの通り、
新潟市の歯科の先生方!
【灯台基暗し】である。

 私の診療所に勤務する
宮田衛生士を私は評価している。

 が、なにぶんにも彼女は若い。
人生経験から人間学を
今後、学んでいくことで
彼女の芸域が
更に深まるであろう。

 新潟市に川崎律子君と云う
歯科衛生士が居る。

 今は亡き原田富一先生の教え子である。
私は故原田先生のお仕事も
ご性格も良く識るものである。

 原田先生は立派な臨床家でいらっしゃった。
が、川崎君の仕事は正に
レオナルド.ダ・ヴィンチのことばではないが、
【師を凌駕出来ない弟子は不幸である】の
師匠を凌した弟子であろう。

 川崎君は現在、フリーランスの
歯科衛生士として活躍中である。
講演をしたり、
東京、仙台等の歯科医院で臨床を続けている。

 私の診療所が
新潟市にあったならば
間違いなく
川崎君は私の診療所の人間となったであろう。

 こう言う時の私は強引である。
何せ私も初老である。
草食と呼ばれる若い世代とは
私は違う。

 世にも不思議な現象である。
新潟市には
これ程類い稀なる
優秀な歯科衛生士が居るのに。
勿体ない!

習性

 人は自身では決して気づかないが、
北へ向かう人と
南へと向かう人に
大別される相である。

 私は間違いなく
北へ向かう人である。

 人は自身では決して気づかないが、
山へ向かう人と
海へと向かう人に
別れる相である。

 私は間違いなく
海へと向かう人である。

 朝、マリリンのリードを
引っ張って、
何時もの様に
北へと脚を進めた私である。

 遠くに薄青い屋島が見える。
讃岐に帰って来る際に
高速道路から
屋島の姿に安堵な心持ちになるのも
私も立派な讃岐の人となった
証しであろう。

 高松市の最北端に
サンポートと名付けられた
今風の波止場が在るが、
赤灯台の下に立ち、
夕凪の備讃瀬戸の眺めは
此は此で、
日本海の夕日とは
趣を異にして、
誠に穏やかな
1日の終りに
相当しいものである。

 が、北国の厳しさは
矢張、
人の成長過程に於いては
肥やしになるのでは無いかと
越後人贔屓と云う訳では
これ又無いが
かように思って
讃岐の人となった私である。

インプラント専門医?

 我が国に於いては勿論の事ながら、
歯科先進国であるアメリカ合衆国に於いても
公的に【インプラント専門医】と云う者は
存在しない。

 アメリカ合衆国に於いては
インプラント治療は
一般歯科医は当然の事ながら
専門医では
歯周病専門医と
口腔外科専門医が
其の治療を行う。

 一般歯科医のインプラント治療と
専門医のインプラント治療の何が違うのかと云うと
一般歯科医は手術から歯を入れる処までの
全ての行程を行う。

 対して専門医はと云うと、
歯周病専門医や口腔外科専門医は
手術のみを担当する。
歯を入れるのは補錣専門医である。

別に一般歯科医が歯を入れても良いが
高額な治療費用が必要な
専門医の治療を受ける事の出来る患者さんは
殆どが補錣専門医の方を選択する。

 アメリカ合衆国に於いて、
一般歯科医と専門医の違いは
明白である。

 専門医は学問的知識と技量が
一般歯科医と比較して
断然、優れている。
試験も免許も
一般歯科医とは別物である。
但し、
治療費用も一般歯科医とは
比較にならない位に
高額である。

 アメリカ合衆国の人間は
此の辺りを充分に認識しているので、
自身の経済と責任で
通う歯科医を選択する。

 我が国に於いては
公的な専門医は存在しない。
学会の認定する処の認定医である。
此れは、国家資格でもなし、
技術的スキルは
全く関係しない。

 我が国に於ける
インプラント治療の導入者なり
功績者の大半は
欧米から其の技術を学んだ為に
日本の学会ではなく
海外の学会に所属しているのが
現状である。

 インプラント治療専門医と云う制度が
公的な国家資格として無い以上、
其れを語るは
まやかしである。

 又、インプラント治療を
得意なり専門としていると
唱う診療所であるならば、
其の診療所の仕事の殆どを
インプラント治療に
関わっていなければ
此も、
まやかしである。

 私の知る限り、
その様な診療所は
指で数える位である。
又、その様な歯科医は
日本全国、
昔からの顔馴染みである。

五感

 私は医師の能力に於いて
一番大切なものは
五感であると
言い切れる。

 CT画像の3D化等の
医療検査機器の発達により
昔より便利になった事実は
此の私でさえも
充分に認識しているし、
事実、
私もその恩恵を
享受している。

 が、機械から表示される
データーは
ぼんやりとした概形と位に
認識する方が無難である。
データーは単にデーターでしかなく
データー以外の
何物も存在しない。

 人体は神秘に満ちた
生き物であり、
其の個体差は大きい。
そして、
何よりも尊いものである。

 日常、この人体に関わる
医師たる者、
日頃からデーター以外の
行間が読み量れる様に
患者さんと相対する
臨床を、
獣の鋭い眼でもって望み、
自身の感性に
或感覚を宿さねばならぬ。

 この感覚こそが
医師の能力である。

私の診療所の近況

 私の診療所で使用しているインプラントは
スウェーデンのアストラと、
スイスのストローマン.インプラントである。

 これ等を使用したインプラント.ワークは
私なりには確立出来ている。

 最近、若い歯科医との交流が増えた。
若さとは尊いものである。
又、彼等のエネルギーを
恨めしく思う時もある。

 若い内に
壁にぶち当たるが良い。
若さとは
未熟であって良いのだと思う。

 が、治療ともなれば
そういう訳にはいかぬ。
何より、患者さんの予後を
確りと佳き状態にするのが
我々の仕事であるからだ。

 私の使用している
インプラント.システムは
複雑な手順を必要とする。
少しの詰めの甘さが
予後に影響するが、
上手く乗りこなせば
万全の成績を保証する。
で、高額である。

 今、私の診療所では
国内の某メーカーと伴に
安価で簡便な手法で
インプラント治療を行えるべく、
研究の最中にある。

 歯科医になってから
ずっと私は
インプラントで食べてきた。

 初老となった今、
安全で安価かつ
複雑な手順を必要としない
インプラント治療の構築により
業界と患者さんへ
恩返しする積もりである。