日別アーカイブ: 2017年5月13日

私の履歴書

30歳半ば過ぎた辺りに、

歯科医師と云う仕事がつくづく嫌になり、

治療中心の生活を辞めた時期が在りました。

流行っていた【三枝歯科クリニック】でした。

高松市の中心部の大通りに面したお洒落なビルの3階に

ガラス張りの私の診療所は在りました。

歯科医師は私と前妻の2名。

院内技工士2名。

歯科衛生士3名。

治療椅子3台の体制で診療所を営んでいました。

完全予約制で、

健康保険取扱の歯科医院でした。

診療時間は午前9時間から午後の1時まで。

午後は2時30分から最終受付が6時30分。

1日の患者さんの数は、

治療の質を落とさないようにとの配慮から、

医師2名、歯科衛生士3名、治療椅子3台と云う規模では少数の

多くて24名から30名と決めていました。

新患の受付は常に半年待ちと云う状況での

安定した歯科医院だったのです。

が、

私は歯科医師と云う仕事が嫌になったのです。

経営は安定していました。

が、

私の夢観た治療は、

患者さんが多くてとても出来ませんでした。

理想はあっても、

自分の技術の未熟さを否応なしに自覚する毎日。

でも、

患者さんは満足して来て下さる。

でも、

自分では満足出来ない。

歯を大切に思って来て下さる患者さんに

何とか支えられていました。

しかし現実は、

仕事の合間で治療に来られる患者さんで、

経営は支えられているのも事実だったのです。

近くて、まあまあ良い歯医者って処が、

私の本当の評価であったと思います。

歯は命と関係ないと云う事実、

歯科医師は医師とは違うという現実、

健康保険の効かない治療を進める精神的苦痛、

予防よりも削る治療中心の現実、

私の心はボロボロになりました。

良い歯医者を夢観て歯医者になった私は、

良い歯医者って、どんな歯医者か判らなくなりました。

当時から、

健康保険の治療でもラバーダム防湿は行っていました。

歯周病の治療を行ってから修復治療を行っていました。

真面目に、真面目に、

歯科医師をしていたと思います。

しかし私は、

私の理想の歯科医師の仕事は出来なかったのです。

私は商家の跡取り息子です。

家業中心の生活に入ったのです。

診療所は移転し規模を縮小し、

治療椅子1台きりで、

歯科衛生士1名の、

1週間に1日か2日程度の診療で、

健康保険の治療を辞退したのです。

健康保険の効かない歯科医院など、

当時の私の患者さんの殆どから見放されました。

治療費用の高い歯科治療など無意味であると云う現実に

私は実感させられたのです。

家業の仕事は順調に推移していきました。

全国に販売店を構えられ、

都内を中心に全国を飛び回るビジネスマンが、

私の姿となりました。

しかし私は歯科を完全に捨てることが出来ませんでした。

私の心が歯科医師だったからです。

高い治療費用でも、

私でなければ嫌だと云う、

本当にありがたい患者さんに救われていたのです。

経営者の苦悩も味わいました。

事業拡大に伴い、

心配、苦悩の種類も変化すること。

キャッシュフローの苦労の連続。

売り上げが増えても、

経費もかさみ、

派手に観えても、

歯科医師の苦労とは別の苦労が在る現実に直面する毎日でした。

私は歯科の教育を受けた人間です。

技術者の、

科学に生きる教育を受けた人間です。

他人の造った商材を販売するビジネスマンの性質が

私に馴染む筈はありません。

革靴の底が一月で磨り減るほど歩いては、

販売店を回っていたのです。

宿泊ホテルは全て一流処。

銀座、北の新地では、

常に黒服から挨拶されるほど、

接待され、

接待し、

ビジネスマンとしては成功者と言われる範疇に居たにも拘わらず、

私の心は渇いていたのです。

心を充たすために事業を拡大していました。

それでも、

心は逆に益々、渇く一方だったのです。

世間に良くある話しです。

お家騒動が勃発し、

私は両親と反目し追放されました。

私は安堵したのです。

歯科医師の仕事しかなくなったからです。

二足のわらじで、

歯科はほぼ休業状態。

しかも自費診療のみ。

42歳の時です。

食べてゆくのも大変でした。

1000円を手にスーパーへ、

別居中でしたから、

当時中学1年の娘との二人暮らしで、

おかずを工夫して作る毎日でした。

空手を習いたいという娘の空手着を買うのに

苦労した情けない思いを、

今でも思い出すのです。

生活は苦しい一方でしたが、

健康保険の治療は再開しませんでした。

私でなければ嫌だと云う患者さんで、

私は最後の勝負をしようと決めたからです。

そこで初めて、

私は歯科医師と云う仕事と心中する覚悟をしたのです。

 

 

 

ノートルダムの森

人生のなかで、多くの出会いを経験します。

私は神さま仏さまから、

人との良い【えにし】を頂ける幸運に恵まれている果報者と、

常々自覚しつつ感謝して過ごして来ました。

毎朝のお仏壇でのお祀りも、

そうした幸運をご先祖さまに感謝しているからです。

多くの著明な歯科医師の先生方の胸を借りて育てられ、

今日、患者さんの治療を行うことが出来ているのです。

患者さんとの【えにし】に際しては、

私は自分の全てを捧げることを

師匠から躾られて来ました。

【歯科治療は愛の仕事である】と云う教えです。

私の今は、

決して自分の力だけでは成り立っていないと、

多くの出会いに感謝しています。

幸運な【えにし】に際して、

その度々、

感動に身を震わせたものでした。

東京都麻布開業の内藤正裕先生との初めての【えにし】の際の興奮は

今でも鮮明に身体に記憶されています。

私の歯科医師としての生きざまは、

先生無くしては語れません。

50も半ばを迎える私が、

昨夜、

生まれて初めての【感覚】を感じ、

興奮していたのです。

歯科医師の仕事は【五感】を研き、

そこから初めて生まれる【第六感】を育てる修業であると、

日頃、若い先生方に口酸っぱく伝えてきた私が、

その範囲を遥かに越えた【感覚】にて、

感動したのです。

岡山県倉敷市にあるノートルダム学園清心中学高等学校と言えば、

故 渡辺和子先生の名を直ぐに思い浮かべる事でしょう。

先生の著作の殆どを私は読んでいます。

しかし、

私は先生を知りません。

また真面目?なる仏教徒である私にすれば、

修道会のシスターと云う存在は、

全く身近とは言えない、

異種族の方と感じて来ました。

あり得ない存在、

自分とは関係のない存在、

それがシスターと云う人たちであったと云うのが本音です。

その様な私が、

【えにし】を頂き、

現 校長先生である三宅聖子先生と長い時間を

過ごす機会を得たのです。

私は職人です。

ですから、

人との初対面の際に、

悪い癖が顔をもたげるのです。

剣客のように、

相手との間合いを取り、

瞬時に相手の技量を観てしまう習性が、

知らず知らずに身に付いているのを自覚しています。

しかし、

昨日の【えにし】においては、

私は戸惑ったのです。

仏教の真言宗では、

大日如来様を中心とした胎像界と云う概念が在ります。

宇宙全体の中心に仏さまが居られ、

万事、母親の子宮に包まれ営みが在ると云う考えです。

三宅聖子先生との瞬間に、

私はこの世界に包まれていたのです。

このような経験と感覚を

私は未だに知りません。

私にとっては、

知らない渡辺和子先生よりも、

包まれていた三宅聖子先生に

圧倒以上、

感動以上、

恐らく胎児に還る感覚を味わっていたのだと思います。

【ひとかどの男】になる修業をしている積もりでしたが、

所詮は男は女性には敵わないと察した私は、

素直な一人の人間に、

初めてなれた瞬間だったと思います。

アル.パチーノの演じるドン.コルリオーネが

バチカンの司祭に懺悔する映画のシーンが私は印象的で、

年に一度や二度、

自然と観る機会が在ります。

懺悔するマフィアのドンを演じるアル.パティーノの表情と、

続けなさい、私の息子、

と語る司祭の演技は圧倒的な名作だと思います。

【人は良い事をしながら悪い事をする】

【人は悪い事をしながら良い事をする】

この言葉の意味に、

大いに共感し、

大人の男になろうと、

やせ我慢と修業に踏ん張った私が、

人に初めて【素直】になれた瞬間だったのです。

【歯の番人】ほど、

やせ我慢の要る仕事はないと思っていました。

が、

三宅聖子先生の姿と言葉は、

仏さまのように観えました。

先生の脇に控えし、

先生の愛弟子の先生に、

私は初めて【畏れ】の感覚を抱いたのです。

【畏れ】は【恐れ】とは違います。

愛弟子の先生の姿は、

仏教で云う、

御本尊様の脇に控えし脇仏さまのように観えました。

味わったことのない感覚にて、

私はノートルダムの森を振り返り、

あぁ、此処には神さまが居られると、

そう感じて後にしたのです。