30歳半ば過ぎた辺りに、
歯科医師と云う仕事がつくづく嫌になり、
治療中心の生活を辞めた時期が在りました。
流行っていた【三枝歯科クリニック】でした。
高松市の中心部の大通りに面したお洒落なビルの3階に
ガラス張りの私の診療所は在りました。
歯科医師は私と前妻の2名。
院内技工士2名。
歯科衛生士3名。
治療椅子3台の体制で診療所を営んでいました。
完全予約制で、
健康保険取扱の歯科医院でした。
診療時間は午前9時間から午後の1時まで。
午後は2時30分から最終受付が6時30分。
1日の患者さんの数は、
治療の質を落とさないようにとの配慮から、
医師2名、歯科衛生士3名、治療椅子3台と云う規模では少数の
多くて24名から30名と決めていました。
新患の受付は常に半年待ちと云う状況での
安定した歯科医院だったのです。
が、
私は歯科医師と云う仕事が嫌になったのです。
経営は安定していました。
が、
私の夢観た治療は、
患者さんが多くてとても出来ませんでした。
理想はあっても、
自分の技術の未熟さを否応なしに自覚する毎日。
でも、
患者さんは満足して来て下さる。
でも、
自分では満足出来ない。
歯を大切に思って来て下さる患者さんに
何とか支えられていました。
しかし現実は、
仕事の合間で治療に来られる患者さんで、
経営は支えられているのも事実だったのです。
近くて、まあまあ良い歯医者って処が、
私の本当の評価であったと思います。
歯は命と関係ないと云う事実、
歯科医師は医師とは違うという現実、
健康保険の効かない治療を進める精神的苦痛、
予防よりも削る治療中心の現実、
私の心はボロボロになりました。
良い歯医者を夢観て歯医者になった私は、
良い歯医者って、どんな歯医者か判らなくなりました。
当時から、
健康保険の治療でもラバーダム防湿は行っていました。
歯周病の治療を行ってから修復治療を行っていました。
真面目に、真面目に、
歯科医師をしていたと思います。
しかし私は、
私の理想の歯科医師の仕事は出来なかったのです。
私は商家の跡取り息子です。
家業中心の生活に入ったのです。
診療所は移転し規模を縮小し、
治療椅子1台きりで、
歯科衛生士1名の、
1週間に1日か2日程度の診療で、
健康保険の治療を辞退したのです。
健康保険の効かない歯科医院など、
当時の私の患者さんの殆どから見放されました。
治療費用の高い歯科治療など無意味であると云う現実に
私は実感させられたのです。
家業の仕事は順調に推移していきました。
全国に販売店を構えられ、
都内を中心に全国を飛び回るビジネスマンが、
私の姿となりました。
しかし私は歯科を完全に捨てることが出来ませんでした。
私の心が歯科医師だったからです。
高い治療費用でも、
私でなければ嫌だと云う、
本当にありがたい患者さんに救われていたのです。
経営者の苦悩も味わいました。
事業拡大に伴い、
心配、苦悩の種類も変化すること。
キャッシュフローの苦労の連続。
売り上げが増えても、
経費もかさみ、
派手に観えても、
歯科医師の苦労とは別の苦労が在る現実に直面する毎日でした。
私は歯科の教育を受けた人間です。
技術者の、
科学に生きる教育を受けた人間です。
他人の造った商材を販売するビジネスマンの性質が
私に馴染む筈はありません。
革靴の底が一月で磨り減るほど歩いては、
販売店を回っていたのです。
宿泊ホテルは全て一流処。
銀座、北の新地では、
常に黒服から挨拶されるほど、
接待され、
接待し、
ビジネスマンとしては成功者と言われる範疇に居たにも拘わらず、
私の心は渇いていたのです。
心を充たすために事業を拡大していました。
それでも、
心は逆に益々、渇く一方だったのです。
世間に良くある話しです。
お家騒動が勃発し、
私は両親と反目し追放されました。
私は安堵したのです。
歯科医師の仕事しかなくなったからです。
二足のわらじで、
歯科はほぼ休業状態。
しかも自費診療のみ。
42歳の時です。
食べてゆくのも大変でした。
1000円を手にスーパーへ、
別居中でしたから、
当時中学1年の娘との二人暮らしで、
おかずを工夫して作る毎日でした。
空手を習いたいという娘の空手着を買うのに
苦労した情けない思いを、
今でも思い出すのです。
生活は苦しい一方でしたが、
健康保険の治療は再開しませんでした。
私でなければ嫌だと云う患者さんで、
私は最後の勝負をしようと決めたからです。
そこで初めて、
私は歯科医師と云う仕事と心中する覚悟をしたのです。