ノートルダムの森


人生のなかで、多くの出会いを経験します。

私は神さま仏さまから、

人との良い【えにし】を頂ける幸運に恵まれている果報者と、

常々自覚しつつ感謝して過ごして来ました。

毎朝のお仏壇でのお祀りも、

そうした幸運をご先祖さまに感謝しているからです。

多くの著明な歯科医師の先生方の胸を借りて育てられ、

今日、患者さんの治療を行うことが出来ているのです。

患者さんとの【えにし】に際しては、

私は自分の全てを捧げることを

師匠から躾られて来ました。

【歯科治療は愛の仕事である】と云う教えです。

私の今は、

決して自分の力だけでは成り立っていないと、

多くの出会いに感謝しています。

幸運な【えにし】に際して、

その度々、

感動に身を震わせたものでした。

東京都麻布開業の内藤正裕先生との初めての【えにし】の際の興奮は

今でも鮮明に身体に記憶されています。

私の歯科医師としての生きざまは、

先生無くしては語れません。

50も半ばを迎える私が、

昨夜、

生まれて初めての【感覚】を感じ、

興奮していたのです。

歯科医師の仕事は【五感】を研き、

そこから初めて生まれる【第六感】を育てる修業であると、

日頃、若い先生方に口酸っぱく伝えてきた私が、

その範囲を遥かに越えた【感覚】にて、

感動したのです。

岡山県倉敷市にあるノートルダム学園清心中学高等学校と言えば、

故 渡辺和子先生の名を直ぐに思い浮かべる事でしょう。

先生の著作の殆どを私は読んでいます。

しかし、

私は先生を知りません。

また真面目?なる仏教徒である私にすれば、

修道会のシスターと云う存在は、

全く身近とは言えない、

異種族の方と感じて来ました。

あり得ない存在、

自分とは関係のない存在、

それがシスターと云う人たちであったと云うのが本音です。

その様な私が、

【えにし】を頂き、

現 校長先生である三宅聖子先生と長い時間を

過ごす機会を得たのです。

私は職人です。

ですから、

人との初対面の際に、

悪い癖が顔をもたげるのです。

剣客のように、

相手との間合いを取り、

瞬時に相手の技量を観てしまう習性が、

知らず知らずに身に付いているのを自覚しています。

しかし、

昨日の【えにし】においては、

私は戸惑ったのです。

仏教の真言宗では、

大日如来様を中心とした胎像界と云う概念が在ります。

宇宙全体の中心に仏さまが居られ、

万事、母親の子宮に包まれ営みが在ると云う考えです。

三宅聖子先生との瞬間に、

私はこの世界に包まれていたのです。

このような経験と感覚を

私は未だに知りません。

私にとっては、

知らない渡辺和子先生よりも、

包まれていた三宅聖子先生に

圧倒以上、

感動以上、

恐らく胎児に還る感覚を味わっていたのだと思います。

【ひとかどの男】になる修業をしている積もりでしたが、

所詮は男は女性には敵わないと察した私は、

素直な一人の人間に、

初めてなれた瞬間だったと思います。

アル.パチーノの演じるドン.コルリオーネが

バチカンの司祭に懺悔する映画のシーンが私は印象的で、

年に一度や二度、

自然と観る機会が在ります。

懺悔するマフィアのドンを演じるアル.パティーノの表情と、

続けなさい、私の息子、

と語る司祭の演技は圧倒的な名作だと思います。

【人は良い事をしながら悪い事をする】

【人は悪い事をしながら良い事をする】

この言葉の意味に、

大いに共感し、

大人の男になろうと、

やせ我慢と修業に踏ん張った私が、

人に初めて【素直】になれた瞬間だったのです。

【歯の番人】ほど、

やせ我慢の要る仕事はないと思っていました。

が、

三宅聖子先生の姿と言葉は、

仏さまのように観えました。

先生の脇に控えし、

先生の愛弟子の先生に、

私は初めて【畏れ】の感覚を抱いたのです。

【畏れ】は【恐れ】とは違います。

愛弟子の先生の姿は、

仏教で云う、

御本尊様の脇に控えし脇仏さまのように観えました。

味わったことのない感覚にて、

私はノートルダムの森を振り返り、

あぁ、此処には神さまが居られると、

そう感じて後にしたのです。