月別アーカイブ: 2013年12月

たまの休日

 歯科衛生士の宮田君が
新潟での研修の間、
私は休日を満喫しようと
前々から
楽しみにしていた。

 喫茶や映画にでも
出向いてみようと思っていたが
結局、
買いだめしておいた本を
数冊、読んだくらいで
束の間の休日は
儚く終わって仕舞った。

 但し、
喜んだのは
二匹の犬である。

 普段では慌ただしい朝の時間に
慣れっこになっている此の犬達は
この日は
何か様子が違う事を
察した模様であった。

 犬には
時間の概念が無いことを
何かの本で読んだ事があったが
其れは疑わしいと思った。

 身体を撫でろと
二匹に交互にせがまれ
飽きれば、
次は
散歩に出掛けたりで
瞬く間に
時間が過ぎていった。

 

段取り

 仕事が終わった後の
気晴らの一つとして
夕食を造る事が挙げられる。

 スーパーで買い物しながら
メニューを考えるのは
巷の主婦と同じである。

 娘たちは
各々が制服から着替えて
腹を空かせて
飯は未だかと
待ちかねながら
テレビの前で。

 小学校低学年と幼稚園児である娘の
就寝時刻を考えると
帰宅してから寝る迄の時間は
ごく僅かしかない。

 その間に入浴ともなると
言わずもがなである。

 私は自称、段取りの名人である。

 食材を切りながら
鍋を沸かし、
煮込み料理の間に
食卓の準備を整へ、
皆が席に着くや否や
ご飯を盛り汁をよそい
揚げ物なり焼き物を
次々と
熱いうちに
食卓へと運ぶ。

 皆が席を起ってから
私はゆっくりと
食事を採る。

 洗い物を片付けてから
娘たちの嫌がる襟を掴んで
一緒に入浴する。

 風呂のなかでも
三人娘の頭と身体を
流れ仕事で
洗って、
それでもって
また順番に
バスタオルで拭いていく。

 仕事場所が戦場である事は
間違いないが
私にとって
帰宅してからの時間との戦いも
これ又、戦争である。

 私の早寝早起きは
今では有名となったが、
単にこれは
くたびれても結果であり、
早起きも
そうでもしなければ
自分の時間を
確保出来ないからである。

 但し、
この段取りは
大いに仕事に役立つ様になった。

 私の贔屓の料理屋の厨房の中は
驚く程に
清潔で、かつ整然としている。

 何事にも
段取りの良さと云うものが
モノを云うのだと
私は確信して疑わない。

技術を育てる

 旨い鮨を戴いた。
この様な旨い鮨は
今では希少となった。

 先日テレビ番組で
最近の回転寿司事情なる特集をやっていた。

 あの様な紛い物が
如何に知恵を搾ろうとも
紛い物は紛い物である。

 鮨は術である。
回転寿司は単にお客が多く来店するに
一喜一憂する商人である。

 商人も立派な職業であるが
技術屋ではない。

 その辺りをはっきりと区別しなければ為らない。

 食するお客に
その辺りの分別が無いから
作り手が
右往左往し
最近話題の
偽造メニューなる
愚かな振る舞いが
日常茶飯事となるのであろう。

 但し、
作り手に
確かな術を
持ち得ない輩の
多いことも
露見したが。

 顧みれば
歯科も全く同じである。

 誰でも自称名医の様在り。
歯科医とは
医療人であり
職人である。

 本来であれば
寡黙なる自分仕事に
徹する類いの人種である。

 技術立国日本であったが、
この国から
もしかしたら
本当の技術が
消え去るかもしれぬを案じる。

 技術を育てるは
誰であろう
他ならぬ国民であるのだが。
 

この季節

 この季節に成ると
忘年会のお誘いを受けるが
お気持ちだけありがたく頂戴し
固辞するのも
恒例行事となった。

 私は独り酒に
拘り通している。

 大勢の人の中に
入り込むのが苦痛である。

 年の暮れに
街に繰り出すのも
悪くはないが
私は独りで
コートの襟を立てて
新地か宗衛門町辺りから
少し入った小路の
静かな割烹で
少しの肴に熱燗を
手酌での方が
一年を振り返るのに
心地良く
又、
味気が在って
自分への御褒美として
相応しいと思っている。

 この様な私であるから
会合が在っても
二次会には
参加する事は皆無えある。

 その会合さえも
近頃は滅多に出向く事も無くなった。

 私の仕事は
自身の中で
イメージを膨らませ
自身の眼で
知識の修得せねば
成り立たない性質のものである。

 時間が幾ら在っても
足りないのが
現状である。

 逸れでも気持ちと頭の中が
目一杯に成った時などには
書店へと
ぶらりと出掛けて行って
其だけでも
大いに気分転換となる
安上がりな質である。

脳疾患?

 夜中に息苦しくなって
目が覚めた。

 身体が縦にも横にも
動かない。

 意識は未だはっきりとしていないが、
もしや脳疾患ではと
心の中で動揺したる私である。

 日中、私の患者さんを
脳外科の病棟迄
見舞いに訪れ、
痛々しい頭の傷口を
見せられた記憶が
鮮明に頭の中を
駆け巡った。

 その時である。
私の顎を
大きな毛むくじゃらの手が
叩き込んできた。

 我にかえって
首を起こし観れば
本来であれば
ベッドの下で
眠っている筈の
マリリンが
大きな身体を私の身体に刷り寄せて
横たわり
舌を出して眠っていた。

 どうりで寝返りもうてない筈である。
毛布をマリリンに掛けて
私は居間のソファーで
寝る羽目となった。

 

老いの実感

 朝ポストを開けると
医局からの郵便が届いていた。

 開封すると
先月、新潟グランドホテルで開催された
久方ぶりの
医局のOB会での
集合写真であった。

 懐かしい顔に囲まれ
又、今の医局を支えるIMG_20131209_102851
若い先生方に囲まれ、
和やかにと云いたい処では在るが、
フケたと実感させられて仕舞った。

親心

 例年であれば年末年始は
新潟で過ごすを
常としているが、
今年の春に
先祖の仏壇を
私が看る事になったので、
流石に正月を
先祖を放ったらかしておく訳には往かず
高松で居ようと思いたった。

 倅を新潟から
久方ぶりに帰省させ様と思ったが
親不孝なる倅は
扶養の身で在るにも拘わらず
新潟駅で捨てられたる
仔猫を拾い上げ
ゴクツブシが又々
極を潰す始末。

 さて此の猫も
遥か四国の地に迄
帰省させねば為るまいと
憐れなる私は
倅と猫の足の手配を
せねば成らない破目となった。

 とは云うものの、
倅にとって
確か一年ぶりの
故郷への里帰りである。

 旨いものでも
食わせてやろうと
今から彼是思案中である。

 親とは
かような生き物であろう。

憧れのハッセルブラッド

 老齢の紳士の中に
写真に、
カメラに、
夢中になられておられる方も多いが
ウーンと唸る程の写真に
遇する事は
極、稀であり、

如何程、高価なるカメラを見せられても、
其れがデジカメの類いであれば
興醒めして仕舞う
ひねくれ者の私である。

 人は見掛けに依らぬ者を
この時程、
感じた事はない。

 私の患者さんである
此の初老の男性は
見掛けこそ
野猿のごときである。
其の方には大変申し訳ないが、
愛嬌ある大きなお猿さんと云うのが
ピッタリな優しい人である。

 この方が写真を趣味とするを
予てより聞き及んでいたのだが、
まあ、素人の遊びごとであろうと
考えていた。

 ある時、この方が
診療にお越しになった際に
小脇に抱えたる
スクラップブックに目が入った。

 問うてみたら
氏の写したる写真のネガ集であった。

 お願いし、
中を開けて驚愕の声を出したる私であった。

 思わずシャーカステンを点灯し、
レントゲンを確認する様に
ルーペでフィルムを確認。

 老眼鏡を鼻眼鏡で
氏をギロリと見つめた。

 並のプロより上手かった。

 これはカメラが良いと云う領域ではない。

 腕が良い写真であった。

 いったいどの様なカメラをお使いかと
恐る恐る尋ねたら
氏の愛機はハッセルブラッドであった。
当然の事ながら
レンズはカールツァイスである。

 氏にはご子息が居られるが
カメラ、写真には
全く興味が無い様である。

 其所で私は両手を合わせて
氏にお願いをした。

 一つ、新潟の萬代橋の写真を撮って頂く事。

 二つ、氏が死んだら此のハッセルブラッドを
    私に譲って下さい。

 氏は大いに笑いながら
萬代橋の写真はオッケー!
憧れのハッセルブラッドは、
俺が死んだら先生にと
女房に伝えとくわ!

 私と氏の会話を横で
歯科衛生士の宮本君が
いかにも大人気ない馬鹿な男と云う眼差しで聞いていた。

昔の記憶

 此の歳ともなれば
昨日食したるものの
忘れたる事、
しばしばであるが、
幼い頃の記憶というのには
驚かされる。

 私は商家の育ちである。
物心ついた時に
我が家は事業が
上手くいっていなかった様である。

 幼稚園の年少組の時に
又、事業が盛り返し
大きな家へと
引っ越しした事を
覚えているが。

 自転車のハンドルに
取り付けたる
幼児用の座椅子に
当の私が座っていたので
恐らく私が
三歳か四歳の頃であったのではないだろうか。

 坂の上の
今で云う処の
六畳二間きりの長屋住まいであったが、
母親の自転車の
前に私が、
後ろに姉が乗せられて
銭湯へと行った帰りの
月に一度位で
パン屋で焼きたてのクリームパンを
買い与えられ
其のときの
鼻腔をつく様な
甘い匂いと
口一杯にひろがったる
クリームの美味しさを
今でも忘れる事が出来ない。

 冬の寒い日には
毛糸の帽子と
両の手を
長い毛糸で繋ぎあっていた
暖かい手袋で武装されるも
自転車を漕ぐ
冬の風の冷たさを
頬で覚えている。

 時々、ふとした時に
かような些細な事が
懐かしく思い出すのである。

 其の様な時に
歳老いて授かった
幼児の頬を
両の掌で
擦って
暖めたる私である。

3つの故郷

 香川県高松市に診療所を構えている私であるが、
私は此の地に生まれ育った訳ではない。

 私の母親が
香川県三木町の生まれで
高松市に育った縁で
幼い頃に
彼岸と盆の墓参りに
母親に連れられて
船に乗って
四国へと訪れるのを
楽しみにしていた位の
異郷の地であった。

 母親の実家は
母親の兄である跡継ぎ息子が
神戸にて産科を開業したるをきっかけとして
此の地から引き払って仕舞っていた。

 此の産科の叔父は子に恵まれず
故郷に残したる先祖の墓は
其のままになっていた。

 幼い頃より
馴染みの在った其の墓は
墓石を眺めれば
平安期のものから数多く
私が診療所を構える気持ちになった時に
此の墓のお守りを考えて
香川県高松市としたのは
ごく自然の成り行きであった。

 せっかちなる私は
越後の地に暮らしたお陰で
随分とマシにはなったが
讃岐の人の
時間感覚と間合いの取り方には
随分と苦労したものである。

 しかしながら、
生粋の讃岐人ではないので
今でも中々
馴染めないのは本音の処である。

 其れでも、
青い島影と屋島の姿に
今では帰ってきたと
感じられる様になった。

 私の中には
此の地香川県高松市と
関西の遣い、
そして越後新潟という
3つの故郷を持ち合わせたるのである。