日別アーカイブ: 2013年12月5日

昔の記憶

 此の歳ともなれば
昨日食したるものの
忘れたる事、
しばしばであるが、
幼い頃の記憶というのには
驚かされる。

 私は商家の育ちである。
物心ついた時に
我が家は事業が
上手くいっていなかった様である。

 幼稚園の年少組の時に
又、事業が盛り返し
大きな家へと
引っ越しした事を
覚えているが。

 自転車のハンドルに
取り付けたる
幼児用の座椅子に
当の私が座っていたので
恐らく私が
三歳か四歳の頃であったのではないだろうか。

 坂の上の
今で云う処の
六畳二間きりの長屋住まいであったが、
母親の自転車の
前に私が、
後ろに姉が乗せられて
銭湯へと行った帰りの
月に一度位で
パン屋で焼きたてのクリームパンを
買い与えられ
其のときの
鼻腔をつく様な
甘い匂いと
口一杯にひろがったる
クリームの美味しさを
今でも忘れる事が出来ない。

 冬の寒い日には
毛糸の帽子と
両の手を
長い毛糸で繋ぎあっていた
暖かい手袋で武装されるも
自転車を漕ぐ
冬の風の冷たさを
頬で覚えている。

 時々、ふとした時に
かような些細な事が
懐かしく思い出すのである。

 其の様な時に
歳老いて授かった
幼児の頬を
両の掌で
擦って
暖めたる私である。

3つの故郷

 香川県高松市に診療所を構えている私であるが、
私は此の地に生まれ育った訳ではない。

 私の母親が
香川県三木町の生まれで
高松市に育った縁で
幼い頃に
彼岸と盆の墓参りに
母親に連れられて
船に乗って
四国へと訪れるのを
楽しみにしていた位の
異郷の地であった。

 母親の実家は
母親の兄である跡継ぎ息子が
神戸にて産科を開業したるをきっかけとして
此の地から引き払って仕舞っていた。

 此の産科の叔父は子に恵まれず
故郷に残したる先祖の墓は
其のままになっていた。

 幼い頃より
馴染みの在った其の墓は
墓石を眺めれば
平安期のものから数多く
私が診療所を構える気持ちになった時に
此の墓のお守りを考えて
香川県高松市としたのは
ごく自然の成り行きであった。

 せっかちなる私は
越後の地に暮らしたお陰で
随分とマシにはなったが
讃岐の人の
時間感覚と間合いの取り方には
随分と苦労したものである。

 しかしながら、
生粋の讃岐人ではないので
今でも中々
馴染めないのは本音の処である。

 其れでも、
青い島影と屋島の姿に
今では帰ってきたと
感じられる様になった。

 私の中には
此の地香川県高松市と
関西の遣い、
そして越後新潟という
3つの故郷を持ち合わせたるのである。

気分転換

 来週の日曜日迄は
ぎっしりと予定が詰まっているが、
今年の行事予定は
其れで最後である。

 其の次の日曜日に
心斎橋のナチュラへと出掛けて
髪を整えよう。

 序でにカボへと顔を出して
休日の処、
営業マンには悪いが
新しい診療チェアーを見に行こうと
今しがた思い付いたる私である。

 私は新潟と同じくらい
関西に縁が在ったせいか
身体と心が疲れたる時は
神戸、大阪の街並みに触れると
自然と癒されるのである。

 御堂筋の銀杏並木の下を
歩くとき
恐らくマリリンと末の娘が
膝元を縺れ合っているだろう。

 ナチュラの奥方より
今回は私の髪型を変えるとの事。

 私はかように
人任せである。

 但し、私が信用を置ける人に
限ってではあるが。

 何れにしても
何かと楽しみなる歳の暮れである。

風邪でダウン

 昨日は、歯科衛生士の宮田君が
兵庫県川西市の畑矯正歯科へと
治療に出掛けていたので
休診にしていたのが
幸いとなった。

 朝から熱がでて
今年最後になって
ダウンしてしまった。

 折から小学3年の娘も
前日から風邪で休んでいる。

 どうやら娘から風邪を貰った様である。

 終日、 娘と二人
床に就いていた。

 其れでも昼時となれば
娘に食事を採らさねば成らぬ故に
床から這い上がり
雑炊を造り
二人で食べた。

 この様にゆっくりと休むのも
久方ぶりである。

 巷の開業医は
休日のゴルフを楽しんだり
趣味に興じている様だが
とんとそのような事には
縁がなく
又、少しの時間が出来るとあったならば
自分から仕事を作って仕舞う
時間貧乏な性格故に
仕方が無いと云えば
其れは其れで致し方ないが。

 兎も角、ゆっくりと休んだお陰で
随分と楽になった。

 今日も朝からハードである。