昔の記憶


 此の歳ともなれば
昨日食したるものの
忘れたる事、
しばしばであるが、
幼い頃の記憶というのには
驚かされる。

 私は商家の育ちである。
物心ついた時に
我が家は事業が
上手くいっていなかった様である。

 幼稚園の年少組の時に
又、事業が盛り返し
大きな家へと
引っ越しした事を
覚えているが。

 自転車のハンドルに
取り付けたる
幼児用の座椅子に
当の私が座っていたので
恐らく私が
三歳か四歳の頃であったのではないだろうか。

 坂の上の
今で云う処の
六畳二間きりの長屋住まいであったが、
母親の自転車の
前に私が、
後ろに姉が乗せられて
銭湯へと行った帰りの
月に一度位で
パン屋で焼きたてのクリームパンを
買い与えられ
其のときの
鼻腔をつく様な
甘い匂いと
口一杯にひろがったる
クリームの美味しさを
今でも忘れる事が出来ない。

 冬の寒い日には
毛糸の帽子と
両の手を
長い毛糸で繋ぎあっていた
暖かい手袋で武装されるも
自転車を漕ぐ
冬の風の冷たさを
頬で覚えている。

 時々、ふとした時に
かような些細な事が
懐かしく思い出すのである。

 其の様な時に
歳老いて授かった
幼児の頬を
両の掌で
擦って
暖めたる私である。