日別アーカイブ: 2016年6月24日

私のような仕事に就いてい、長年過ごしてきた人間って

常人には理解できない位、

辛抱強く、投げ出さない質になるんです。

普通だったらとっくの昔に逃げ出してるのに、

まだ頑張ってるの?!

煮え切らない!

てな事が案外と在るんですよ。

治療で後悔したくないからでしょう。

あの時、もっと頑張っておけば良かったとか、

あの時、あぁすれば良かったのか?とか、

そんな心情を何度も何度も味わって過ごして来ましたから。

自然と粘る質になったのでしょう。

が、

進行のしきった質の悪い病気は、

どうにもならないのが悲しいですね。

そんなこんなを繰り返しながら年をとっていくのでしょう。

若い時分に無茶した罰でしょうか?

真面目になりすぎました。

ギャンブル

ギャンブル狂の方の心境を私には理解できません。

トイレを催した際に、

眼前にパチンコ屋さんが在っても、

店内に入ることを躊躇し、

小走りで立ち去りアタフタする機会がたびたびありました。

麻雀も肌に合いません。

冒険心は大いに在るんですよ。

ただギャンブルに紳士の匂いを感じられないのです。

私にはどうも変なコダワリってのが在るんですよ。

若い時分のことです。

コンパで知り合ったOLと日を変えて待ち合わせし、

下心満々で、

鮨屋のカウンターに並んで、

ビールのツマミが届き、

この女性、

割り箸を割き、

で、

両の手で箸をとって、

木の毛羽を取る所作を始めたのです。

一気に冷めたのは云うまでもありません。

鮨を少々摘まんで、

所用ができたと嘘をついて

帰ったことを覚えています。

ハシタナイなと。

これに似たり寄ったりの感覚をギャンブルに対して

私は抱いています。

偏見です。

すみません。

何事にも、

この様な評価の物指しと云うモノを

私は持っています。

窮屈なんですが、これはどうにもなりません。

ただ、ギャンブルを好む方は瞬時の勝負処ってのが

快感なのかもしれません。

私の仕事においても、

瞬時の勝負処と云う瞬間が在ると、

正直に申し上げておきたいと思います。

真の値を点と仮定したら、

点の向こう先、点の手前と云う誤差が在りますでしょう?

点の寸差手前から、

心持ち手先を進めるべきか、

此処で留まるべきか、

そんな判断を迫られる機会がたびたび在るんですよ。

考える前に勝手に手が先に動く時も在りますし、

考えて、決めて、息を止めてエィ!と。

そんな毎日の繰り返しですから、

わざわざギャンブルなどでスリルを味わおう等とは思いません。

今日の手術は、

瞬間の判断で、

抜歯か残せるかの結果が決まると云う

責任重いモノでした。

残せて良かったです。

私の仕事を、

私は他人には勧めません。

 

 

私の診察の日常

コレは何をしている処だとお想いになられますか?

_20160624_120320

私の診療所では、

初診では勿論のこと、

治療のステップ毎に、

或いは治療終了時に、

メンテナンス時に、

口腔内の写真の記録を残しています。

で、

このショットは、

上の前歯をアップで撮影する処です。

歯の裏側の黒い板が丁度歯のバックスクリーンとなり、

修復した歯の微細な色使いが鮮明となります。

カメラは専用ストロボの装備されたものを使います。

この上の歯は全てセラミッククラウンで修復しています。

術後13年経過したものです。

DSC_0340

歯茎も健康ですし、

セラミッククラウンの鮮度も当時のままです。

治療しながら、

写真撮影することに、

私の患者さんは既に慣れっこになられておられます。

生まれ育ち

変に誤解しないで下さい。

言葉と云うモノは難しいですから。

最近とくに、

どんな水を飲んで育ったのかと云う事は、とても大切だと感じています。

生まれ、育った環境ってことでしょうか。

淡水魚を海に放すことは死を意味します。

逆も同様です。

人は高度な感情や情緒と云う意識を持つ生物です。

ですから文化と云う条件も加味しなければなりません。

それらの違いから来る【匂い】は、目には見えませんが、

必ず察知できる能力を人は持ち合わせています。

それを【相性】とか【うま】と云う表現で著すのでしょうか。

この違いから来る【差】は、

初期にはボタンの掛け違いとして表れ、

進んで、

苦手として顕在化し、

最後のトドメとして、

致命的な言葉を吐く立場になるか、

致命傷を受けるほどに傷つけられるかの何れかとなり、

争うことになるのか、

離反することになるのかと云う結末に。

この様な現象は珍しいことではありません。

国と国との間においても、

仕事の上においても、

交遊関係においても、

家族においても。

【折り合いをつける】と云う歴史が育んだ知恵も在りますが。

それは砂上の楼閣でしかありません。

例えば、

家族を例にとると、

家族それぞれに希望もあるでしょう。

その希望の上に乗っかる石、或いは蓋が、

父であり夫である私だと。

男は、社会の中で常に折り合いをつけて過ごす定めにあります。

挫折や頓挫の実際も味わいながら男は大人になります。

父は、わが子が進む道での様々な経験を既に予想出来ています。

その上で、

経験した方が良い苦労と、

決して肥やしにはならない苦労を

無意識に判別しています。

当然、未経験の者には理解できないでしょうが。

ここから先は、

本当に【飲んだ水】の種類によって、

受け取り方が大きく変わって来るのです。

そう言う意味ではないと説明すること自体が、

そう言うコトなんです。

診療所の院長室で泊まる時が在ります。

こういう時は、

心身共に臨界点を越えた時です。

私は好きで【歯の仕事】をしています。

ただ治療だけ出来れば、何の不足もありません。

が、

仕事場を構えると云うことには多くの事情が発生します。

診療所を保有し、其れを維持するための経費。

雇用の問題。

加えて一家の主としての義務と責任も

当然、私の肩に架かっています。

私の仕事の特殊性ゆえに、

私は仕事上の悩みを同業者に相談できません。

私が先行者だからです。

職人としての悩みに対する対応策は、

既に身につけていると思っています。

人生は重い石を背負って歩くようなものと云う台詞がありました。

この10年近く、しみじみと味わっています。

背負う石も色々ありましょうが、

私が青春期に選んだ【歯科と云う石】は、

どんなに重くても背負う意味も大きい石だと思います。