変に誤解しないで下さい。
言葉と云うモノは難しいですから。
最近とくに、
どんな水を飲んで育ったのかと云う事は、とても大切だと感じています。
生まれ、育った環境ってことでしょうか。
淡水魚を海に放すことは死を意味します。
逆も同様です。
人は高度な感情や情緒と云う意識を持つ生物です。
ですから文化と云う条件も加味しなければなりません。
それらの違いから来る【匂い】は、目には見えませんが、
必ず察知できる能力を人は持ち合わせています。
それを【相性】とか【うま】と云う表現で著すのでしょうか。
この違いから来る【差】は、
初期にはボタンの掛け違いとして表れ、
進んで、
苦手として顕在化し、
最後のトドメとして、
致命的な言葉を吐く立場になるか、
致命傷を受けるほどに傷つけられるかの何れかとなり、
争うことになるのか、
離反することになるのかと云う結末に。
この様な現象は珍しいことではありません。
国と国との間においても、
仕事の上においても、
交遊関係においても、
家族においても。
【折り合いをつける】と云う歴史が育んだ知恵も在りますが。
それは砂上の楼閣でしかありません。
例えば、
家族を例にとると、
家族それぞれに希望もあるでしょう。
その希望の上に乗っかる石、或いは蓋が、
父であり夫である私だと。
男は、社会の中で常に折り合いをつけて過ごす定めにあります。
挫折や頓挫の実際も味わいながら男は大人になります。
父は、わが子が進む道での様々な経験を既に予想出来ています。
その上で、
経験した方が良い苦労と、
決して肥やしにはならない苦労を
無意識に判別しています。
当然、未経験の者には理解できないでしょうが。
ここから先は、
本当に【飲んだ水】の種類によって、
受け取り方が大きく変わって来るのです。
そう言う意味ではないと説明すること自体が、
そう言うコトなんです。