月別アーカイブ: 2013年10月

男の修行

 たまに三十代の女性の話を聴いたり
ブログを眺めたり
で、
いつも感じる事がある。

 自由な発想で羨ましくもあり
羨ましくもなし。

 とりわけ私の様な職人仕事に
就いて永い間生きてきた者にとっては
其の
誠に判り易い
真っ直ぐな想いと行動に
羨ましくも在るが、
断言出来るのは
かような考えでは
芸の世界では生きていけないと云うことである。

 職人に男が多いのも
もしかしたら
一理在るかもしれない。

 男の職人が
なによりコダワルは
流儀である。

 此の流儀とは
言葉での表現は
様々なれど
結局は
やせ我慢である。

 又、技術者は
常に高見を目指して
自分の欠点を封じ込めるに
戦う日々である。

 自分の利点は
自然と伸びるものである。

 芸の上では
我を封じ込めるが
修養の大半を占める。

 たいした技術もない奴が
自称すし職人、自称アーティスト、
自称インプラント専門医と名乗り、
うかれて居るのを見るにつけ、
こやつらは、
中途半端な修行で満足した
良いものを知らない
幸せな人達と
哀れみの眼で
見てしまう。

 芸の世界は厳しい。
歯の世界も同様である。

 歯の仕事の性格上、
女の口出しは無用の世界である。

 家庭内の事はいざ知らず
仕事の口出しを
女にされる阿呆な男が増えたのも
嘆かわしい昨今の現状らしい。

 男が仕事に命を賭けるなら
何から何まで
自身で
もがかねばならぬ。

 女に支えて貰いたい等
甘ったれた男の再教育の
場所など無いので
此れは既に救い様のない
駄犬である。

 男がダラシナイから
現実に生きる生き物である女性が
強くなる様な気がしてならない。

 苦しい事もあるだろう。
 悲しい時もあるだろう。
 辛い時もあるだろう。
  ‥‥‥
  此れを
 じっと耐えるのが
 男の修行である。

 連合艦隊司令長官 山本五十六元帥の言葉である。

インプラント治療専門医院

 インプラント治療専門医院の強みは
様々なインプラントを保有している事も
其の中の一つである。

 通常は歯科医院に依って
使用するインプラントのメーカーは
一つか二つ位であろう。

 私の診療所では
先ず国内で販売されている
インプラントについては
殆んど其のインプラント手術器具なり
インプラント本体を常備している。

 実際に骨を触った感触で
最終的に、
最適なインプラントを選択する事が
可能である。

 オプションを保有している事の
強みは、
経験した事の無い者には
判らないであろうが。

 インプラント治療に於いて
患者さんサイドの関心事に
先ずは費用が挙げられる。

 健康保険の適応無い治療であるから
高額な治療である。

 患者さんにとっては
誠にお気の毒な事である。

 が、低価格なインプラント治療も
場合によっては
仇となる時がある。

 治療方法と云うのは
あくまでも状況に応じて
最適な治療方法を
選択しなければならない。

 仮に身体の深刻な病気になった時、
貴方は、先ず治療費用が安い処と
治療方法ありきで
お考えになるだろうか?

 身体の中に移植されるインプラントである。

 慎重に考えて頂きたい。

インプラント治療はオーダーメード治療である。

 電話にて、いきなり
「そちらはインプラント一本いくらですか?」
と、問い合わせて来られる方が
おられるが、
その様な場合、
大変、困惑するのである。

 私の診療所は
インプラント専門の診療所である。

 健康保険の診療の傍らに
インプラント治療を
たまにする歯科とは違う。

 インプラント治療専門医院であるから
インプラントの種類も豊富である。

 又、インプラントを構成する部品も
様々で、
治し方も、また様々である。

 インプラント治療は
オーダーメード治療である。

 私は患者さんの
体質、口の中の状態、性差、
年齢、体格、パーソナリティー、
性格、等々、
患者さんの希望を踏まえて
インプラントの種類から部品選び、
製作する技工士を決めている。

 インプラントの利点も欠点も
知り尽くしている自負がある。

 最近はインプラント治療の失敗例とも云える
患者さんが、救いを求めて
来られる機会も多い。

 私はジックリ診察して
ジックリ考えて
治療方針を決定する主義である。

 インプラント治療を
安易に考えての
問合せには
私は受け答えしない考えである。

 インプラント治療と云うのは
異物を身体の中に
持ち込む移植治療である。

 私は安易には考えられないのである。

 最適な治療方法と設計を
探し求める為の手順を
ステップ.バイ.ステップに
進めなければ
インプラント治療の
長期的成功は得られないのである。

父息子

 新潟の明訓高校に通う愚息は
私が電話をかけても、
メールをしても
返事が返ってくる事は
稀である。

 と云っても
早朝からの電話の着信音に
慌てて標示を除きこむと
愚息からの
突然の電話である
場合が多い。

 但し、此の突然の電話には
ある規則性が在る。

 其の規則性と云うのは
月末、
或いは
月末の仕送りを
嫌がらせの積もりで遅らせて
月初めになっても
仕送りをしないでおいた際にである。

 こうでもしなければ
奴から電話を掛けてくる事は
先ずもって無いのである。

 此方も大した用事などは
特別には無いのであるが
親としては
息子の声を聞くと
安心するもので
電話を掛けての
ノーリアクションは
誠に腹立たしい
想いとなる次第である。

 最近は
此れにも慣れっこになって
連絡が無いのは
元気な記しであろうと
腹を括った私である。

 私の若い時分も
都合の悪い時には
親からの電話には
逃げ回り
観念した際の
言い訳は
忙しかったと
決まっていた。

 若い奴に
何が忙しい事など
あるはずも無いが
自分と照らし合わせても
愚息を責める資格など
無いと妙に判った親父と
なってしまう私である。

 愚息が今後、
どの様な人生を歩むのか
親に出来る事は
黙って信じて
見守る位が
関の山である。

専門医?

 先日の新聞記事にて
東京都の病院に勤務する女性内科医が
虚偽の経歴にて
総合内科専門医の認定資格を
内科学会に申請し、
診療行為を行っていた処
此れが露見し、
認定資格を剥奪されたとの事である。

 内科学会のコメントは
当然の事ながら
此の内科医に対する
遺憾の意を表明するものであった。

 しかしながら、
私は内科学会に対して
遺憾の意を覚えるものである。

 確かに経歴を詐称した
此の女性内科医に対しては
阿呆としか云いようがないが、
正規のトレーニングを
受けていない未熟者に対して
総合内科専門医と云う
タイトルを与えられる程の
簡単な専門医を
乱発した内科学会の方が
本来は恥ずべきである。

 ちなみに此の女性内科医は
医師免許は保有している為に
医師法違反には
問われない。

 日本に於いても
学会が認定する専門医ではなく
厚生労働省に代表される
国家資格にするべきである。

 歯科に於ける認定医制度、
特にインプラント認定医なるものの
規準の甘さは
笑止である。

 が、兎も角
総合内科専門医なるものが
これ程信用出来ない
単なる飾りの類いとは
私も今の今まで
知り得なかった。

男の流儀

 商人の家で生まれ育った私は
幼い頃より
家に勤める職人に
囲まれて
大きくなった。

 環境と云うものは
恐ろしいものである。

 幼い眼にも
どの職人が上手で
誰が先が無いのか
自然と判別出来る様になった。

 口先と技量の間には
相関関係は成り立たないと云う事も
育った環境が
自然と教えてくれた。

 私は仕事は、
否、
家庭に於いても
全ての全般にわたって
其の総括は
男が毅然と構えている事が
肝要かと
思っている。

 では、男の毅然とは
則ち、
流儀である。

 男の流儀の前に女無し。
男の流儀の後ろに女在りである。

 弱くダラシナイ男は屑である。
女の尻を追いかけるは野暮である。

 男に産まれた以上
女が寄って来る様でなければ
男を廃業するが善かろう。

 その様ななか
脇が固いが
本物の紳士である。

 男たる者、
こうでなければ成らないと
律するから
男なのである。

 此れを窮屈と感じ
自己崩壊の道を辿るは
男の修行なり鍛練が
足らぬ故に
同情の余地など無いのである。

 仕事も同じく
厳しいものである。

 仕事に広言など不要である。
黙って、己を封じ込め
心と身体を一体にして
ただ励むのみである。

 歯科医と云う職人仕事は
エンターテイメントでは無い。

 其処の処を
履き違える輩は
早々に
歯科界から
退場すべしである。

父娘

 仕事に於いて
強い意志でもって
急な坂道を
かけ上がってきた
自覚在る私である。

 勿論の事ながら
壁にもぶつかったし、
挫折も
当然味わった。

 が、走る速度は変えずに
ひたすら走って
今日に在る。

 過程で、
犠牲にし失ったものも多い。

 やむを得ずであった。

 来春、大学卒業を間近に控えた娘に
常識はずれな助言しか
出来ないのは
私が身をもって
常識はずれな道を
撰んできたからである。

 私は二番煎じの選択は
出来ない性分である。

 私の前に
道無き方角を
自ら撰んで
生きてきた。

 娘と云えども
大人の人間である。

 後悔の無い人生など
無き幻であろうが
其れでも
精一杯、
若者のエネルギーを
煮えたぎらせる
情熱の心は
失わないで欲しい。

娘よ。

 大学卒業を間近に控えた娘は、
就職難の此の時代に
所謂、安定した企業に
勤める事が内定し
大学時代最後の夏休みは
終止アメリカを
満喫した様であった。

 が、ここに来て
心のなかに
引っ掛かる何かが
芽生えた様である。

 周囲が狼狽えるなか、
何故か私は安堵したのである。

【お前の撰んだ道は
舗装されたアスファルトで
固められた道である。
将来、自分の歩いた後を振り返っても
足跡はのこってはいない。
父さんは砂浜を歩いてきた様なもんだ。
しんどかった
不安やった。
でも、
足跡を
お前たちは
観れるだろ?】

 就職を報告してきた娘に
返した台詞である。

 非常識な親と思うかもしれない。

 が、私は人の一生と云うものは
一度きりのものであるから
他人目など気にせずに
風の様に
走り抜けたいと
思っている。

 親にとって
子は宝である。
子は命である。

 私は娘が
今、立ち止まり
方向転換するを
責める気持ちなど
更々無いのである。

 娘よ。
お前も父の子である。
道なき処を
歩くが良い。
若い時分は
急な坂を
駆け上がれ。
しないで後悔するよりも
失敗から
学ぶが良い。
其は
早稲田の創始者
大隈公の遺した言葉にも
在る様に。

 

親の仕事

 親に逆らい家業を継がず
歯科の道に入った私である。

 が、今になって想うのは
恵まれた境遇で
育ったと云う事である。

 観る目は自然と
養われるものである。

 其れには年季が必要だ。
付け焼き刃の講釈などは
たかが知れたものである。

 難しい人と言われるやも知れぬ。

 私は器、食器の類いには
ウルサイくちである。

 料理を活かすも殺すも
器次第であるからだ。

 料理屋へ出向いた際に
季節感、食材と
似つかわしくない器が
供される機会が多い
昨今である。

 プロの程度も堕ちたものだと
嘆かわしい。

 主婦も立派な職業である。
女性としてのたしなみは
些細な事柄から
伺いしれる。

 洋菓子であれ
食材を際立たせる
器とフォークの準備も出来ぬでは
性転換手術でも受けるか
表から消え失せ
納戸の奥で昼寝でも
するが善かろうと
思うものである。

 かように子育てと云うものは
決して手抜き出来ない
大切な親の仕事である。

一子相伝

 京菓子屋の伊織ではないが
私は三枝デンタルオフィスの
眼に触れない部分の
コダワリは
公表しない主義である。

 但し、
私の此のコダワリは 
未だ進化の過程にある。

 昨年在籍してたスタッフが
三枝デンタルオフィスではと
他所で物識り顔で言っても
既に私の診療所の
やり様は
その時既に
変わってしまっている。

 物事を表面的に掴もうとするは
稚拙な行為である。

 物事の本質と云うものは
決して表面からでは
伺う事が
出来ないか、
判る眼を養った者にしか
見えないものである。

 歯のキチガイと云われて
久しいが
此の言葉は
お誉めの言葉として
受け取ろう。

 私には量産車のポルシェの良さは
判らぬが、
ベントレーの美しさには
溜め息が漏れてしまう。

 手作業の美しさの真髄が
感性を揺さぶるのであろう。

 そもそもコダワリとか
美しさの感じ方と云うのは
幼い頃よりの
育った境遇で決まってくると
私は固く信じてる。

 その様な意味では
家業と云うものは
歴然と存在し、
其の形は
矢張、
親だからこそ、
子にだけ伝え得る
一子相伝とも言えよう。