午後からは、娘たちのブーイングの嵐にて、テレビを中断せざるを得ず、
加藤剛演じる大岡越前の連続モノを途中にて子供チャンネルに切り替えたのです。
私の幼い時分には、ほぼ毎日のように時代劇が放映されていました。
水戸黄門、大岡越前は云うに及ばず、
銭型平次の主題歌を舟木一夫の歌声に逢わせて声高らかに唄ったモノでした。
大江戸捜査網のクライマックスに必ず流れるナレーション、
ー 死して屍、拾う者無し ー
のタイミングには、誰から声をかけられても、画面に釘付けとなったモノでした。
最近では、あまり時代劇が流行らないと云われています。
それは、皆の嗜好の変化に寄るモノとは思っていません。
作品の出来栄えの酷さに、視聴者からソッポを向かれた為でしょう。
カメラアングルから舞台装置の貧弱さと言うよりも、あまりの不勉強。
役者のメークの酷さ、かつらの不細工さ、で、役者自身の所作の貧弱さ。
これでは幾ら時代劇ファンの私でさえも、昨今のモノは観る気にもなりません。
昨年でしたでしょうか?
私が大の贔屓の鬼平犯科帳、当然、主演は吉右衛門でしたが、
昔に同じものを撮った作品の方が、ズッと良いできばえであり、
途中から、歯科の論文を拡げて、ながらで観る程度のモノでした。
主演は変わらない、脇役も殆ど変わっていない。
でも、吉右衛門の鬼平は、私の好きな鬼平ではありませんでした。
恐らく、様々な構成において、基本の形を知らない世代、基本の形を知らされていない世代、
人間の味わいを知らない世代の手に依って造られたからかもしれません。
映画は主演も大切ですが、其れよりも影から支える縁の下の力の威力を
つくづく感じさせられる最近の時代劇なのです。
知らぬ間に、うつらうつらソファーで転た寝の日曜日の午後のど真ん中でした。
夕刻からは、昔のシリーズモノの鬼平と剣客商売で、再び心地良い幸せ感に浸ったのです。