日別アーカイブ: 2017年8月30日

明治の人

今日は大きな手術が在ります。

少し早めに仕事を終えて、

上京することになりました。

帰りは朝一番の羽田発つのフライトです。

コレで診療に十分間に合います。

東京は近い処となりました。

昨日の、

夫婦紛争の最中にあった関東に住む友人からのヘルプにて、

やむなく重い腰を上げたのです。

奥方が携帯電話に意外や

出で下さったのです。

どうかね?三枝!

友人の求めですもの。

嫌でも行かねばならないでしょ。

人は互いに支え合うものです。

片方に、

その気がなければ

相互に倒れてしまう。

相互と云うことを

互いが自覚しなければなりません。

また互いが同じことをしても意味がありません。

役割分担と云うものが在ることも。

コレは私自身も、

十分と考え、

今の考えに至りました。

ただ、

こうでなければならないと云う処、

チョッとスローでニュートラルな処、

この使い方が大事なのだなと、

恥ずかしながら、

息子を観て、

この数日に気づいたのです。

息子曰く、

父ちゃんは明治の人、

爆笑されていますから。

 

考えるヒント

息子から頻繁に電話が入ります。

アレホド私からの電話に

一向に応答なしであった息子でしたのに。

私が電話をすれば、

その日の内に着信が在るようになりました。

単純な私は嬉しくてなりません。

息子が中学時代に、

何冊かの書籍を渡したのだそうな。

私は覚えていません。

また、

車の中で、

散歩の最中に、

私は色んなことを聞かせたこと、

コレは私はハッキリと覚えています。

父親が息子へ

伝えるべき生き方の所作や、

やせ我慢すべき具体例です。

今になって振り返りますと、

時期が早かったことが判ります。

私が焦ったのでしょうね。

で、

父ちゃんがくれた本は今読んでも難しい。

言うことも含みがあって、

受け取り方に味がある。

コレは意図してのこと?

そうかもしれません。

小学校の授業に英語がある昨今、

それはそれで反対はしません。

ただ、

母国語を綺麗に操れるようなれるための

強い足腰を育てる時期に、

小学校にそんなキャパが在るのかと。

スマホで見る文章と、

書籍で見る文章が、

たとえ同じものであっても、

先々にグイグイと推し推しし、

後からパンチが利いて、

考えるヒントとなるのは書籍です。

意図せぬ時に、

自然か偶然か、

視界に入った昔読んだ書籍の背表紙に、

思考の灯火の発火点になった機会は

数回では済みません。

書籍を毎度の食事をするかのように

日常習慣となった人の顔は判るものです。

こんな話をすると、

書籍上の知識だけで、

実戦上の経験がないのでは?

そんな嫌味で返される考えも

ある意味否定しません。

しかし、

1度きりの人生ですから、

2人、3人ぶんの経験などできません。

また1つの物事を追求してゆきますと、

別ジャンルの物を手掛けた際に、

意外と、

それまでの経験が役に経ったと云う機会も

たびたび在りました。

歴史を笑う者は未来に泣くと云う

シーザーの台詞は

青年期に読んだ書籍から得て、

ズット私の考えるヒントと手助けとなりました。

息子は、そんな辺りにヤット気づいたようです。