月別アーカイブ: 2013年11月

みのもんた氏にエールを贈る

 週刊誌やテレビの報道にて
子息の不祥事で
メタメタ状態の、
みのもんた氏である。

 氏もマスコミの人間であるから
氏は言い難いであろうが、
あれ程までに
木っ端微塵に叩く必要が
在るのだろうか?

 確かに阿呆な倅である。
親の教育が悪かったと言われれば
当の親の立場から
一言も無いのは
叩いている側にも
解っている筈である。

 私は、正直、
朝っぱらから
みのもんた氏の顔を
観るのは嫌であった。

 氏の顔は
正直言って、
爽やか顔では無い。
朝から、
ゴルフ焼けか酒焼けの
顔など観たくはなかった。

 であるから、
私が特に、
みのもんた氏の贔屓で
物申し上げている訳ではない。

 池に落ちかかった者に
手を差し伸べるが
人の徳ではないか!

 豪邸を売り払う破目に成るだろうとか、
引き際が悪いなど、
皆で騒ぎたてる話題では無い。

 私の好みは別として、
話術で食って来た
プロフェッショナルである事は
紛れもない事実として
私は、
みのもんた氏を認めている。

 一生懸命、働いて、
稼いで築いた
みのもんた氏の
有形無形の財産に
嫉妬するは
恥ずべき心である。

 皆で叩いても
氏は必ずや、
蘇るであろう。

 そうで無ければ
今の地位は築けなかった筈である。

 へそ曲がりの私は
今の氏を叩く側に対して
軽蔑の眼を向ける。

逆境に遇した時に

IMG00199 人は生きている間には
様々な苦境に
立たされる時を
経験するが、
其の境遇に在る時に
何を想って過ごすのであろう。

 新潟の人情横町は
車が一台も通れば
やっとと云う位の
小さな小路で
概よそ半世紀は
十分には経過しているであろう
バラック風の平屋長屋の
暮らしに根付いた商いを
営んでいる商店が
建ち並ぶ処である。

 私が新潟に在る間は
此の横町近くの
白龍大権現に参拝するを
日課としている為に
毎日、此の横町を訪れる。

 早朝である為に
未だ店商いは
始まっていないが
人の通りが無くとも
其処には
人の情を
感じさせてくれる
何かが在る。

 先日、
魚屋の軒下に
村上の三面川を登って
故郷の越後へと
帰って来たであろう
鮭の
寒風曝しが
眼に入ってきた。

 生き物とは
在る意味
この様なものかもしれぬ。

 風に身を曝し
此れを定めと受けとるのか、
風に因って
鍛えられ、
更に強く、
更に熟成させようと
自身の中の魂を
鼓舞させるのかは
紙一重であるが、
要は、
其の人の
心の持ち様である。

中原市五郎先生 像

IMG00186 先日、佐渡ヶ島で
開業している旧友と会った。

 彼は不幸にも
家族に先立たれ
現在、孤独の身であった。

 元来、朗らかな奴であったが、
現状、奴の瞳には
語れようも無い
哀しさが顕れていた。

 酒で寂しさを
紛らわして
独りで
夜を過ごす様が
ありありと
伝わってきた。

 「折れそうに為った時、
   船で新潟まで出てくんだ。
    そんでサ、
     バスに乗って、
      大学まで来て
       中原先生の銅像観て
    また、頑張らねばって思ってサ。」

 此れは、彼だけの話ではない。

 かく云う私も同じである。
否、日本歯科大学の同窓は
皆が同じである様な。

 他の大学で学んだ人の事は
私には判らない。

 が、
日本歯科大学では
自然とその様な
心持ちになる空気が在る。

 足の不自由な青年が
雪の深い信州から
歩いて独り、
上京し、
苦学の果てに
歯科医と成った。

 時は、富国強兵の
明治の世に在って、
国に歯科医の養成校の創立を求めたが、
歯科医は医師に非ずと
拒まれて、
私財を投じて創ったのが、
中原市五郎先生の
日本歯科大学である。

 此の物語りを知らぬ
在校生は皆無である。

 自主独立の
建学の精神は
卒業生達が
世に出てからの
支えとなっている。

 中原先生の銅像は
東京の飯田橋の富士見坂の
本校前の通りに面しての処と、
新潟市の浜浦の
新潟校の中庭の
真ん中に
其の姿を
観る事が出来る。

 中原市五郎先生の銅像は
日本歯科大学に所縁の在る人間にとっては
心の真柱とも云えよう。

新潟市 都食堂

 人は何かしら
他の人間の温かみを
必要として、
其の人情に
身も心も
救われるものである。

 かように
人は独りでは
生きて往けぬ生き物である。

 新潟の柾谷小路の
古町十字路近くの
裏路地に
都食堂と云う名の
小さな定食屋が在る。

 長い間、
新潟に暮らしていた私は、
古町近くと云えば
盛り場ばかりで
定食屋の類については
まるっきしの無知であった。

 引き戸を開けると
据え置き棚の中に
色々なおかずが置いて在るのを
IMG00184選んで取って
食べる類の店である。

 所謂、お袋の味を
第一の売り物にしている
此の店を
私が知ったのは
倅に因る処である。

 店の女将は
夜の明けぬうちから
深夜に至る迄
年がら年中
此の店を
少ないパートを遣って
遣り繰りしている。

 倅にとって
祖母の歳に近い年頃の
此の女将は
倅の心の琴線に
正に触れた様であった。

 越後の人間は
外の寒さと違って
誠に心暖かい人が多い。

 私が新潟へと出向いた際に
必ず最初に顔を出し、
日頃の倅への温情に対して
礼を申し上げると供に
女将の漬け物と
温かい味噌汁に
両の掌を
合わせるのである。

偶然の再会

 先週の事である。
歯科衛生士の宮田君を
初めて新潟迄、案内した時の話である。

 大学の施設の案内を
偶々、通りがかった
麻酔科の大橋准教授が
引き受けてくれた。

 私は末の娘と医局にて
若い先生方と雑談に講じていた。

 大橋准教授は、
私の診療所で麻酔医として、
宮田君とも顔馴染みである。

 その様な訳で、
宮田君は随分と丁寧な
案内を受けた様である。

 午後より宮田君は
歯科衛生士の川崎律子女史の講習を
受講する事になっていた。

 昼食は朱鷺メッセ近く迄
足を延ばそうと予定していたが
時間がないので、
大学近くの馴染みの定食屋と云う事で
宮田君には
気の毒ではあったが、
我満して貰うことと相成った。

 席に着いたが
店の婆さん、
どうも今日は機嫌が悪い。

 何時もであれば
店の前に路駐する私に
先生、よく見ておくからと
心地好く応対してくるが、
この日は何故か
ニコリともせず、
車を裏の駐車場へと
顎で合図した。

 カチンときたが、
悪いのは私であるから
店の引き戸を開けて
通りへと出かけた時に、
前の方から
怪訝そうな顔つきで
私の方に向かって来る
一人の初老の男が居た。

 誰だ?と訝しげながら
私の方でも
其の男の顔を
凝視した時に
お互いの口から
「三枝!」
「マスター!」
と、叫んで
互いの存在を確認したのである。

 今では店じまいしてしまったが、
大学の近くに
フルールと云う名の喫茶店があった。

 珈琲にだけは
拘りを持つマスターであったが、
食事の方はサッパリで、
イタリアン.ピラフなる物も
メキシカン.ピラフなるメニューも
見た目も中味も
全く同じ代物であった。

 客の殆どが
大学の学生で、
どちらかと云うと
真面目では無い部類の
人間がたむろする喫茶店であった。

 マスターの私とは
一回り、歳が離れている。

 当時の私にとって
大人の男であった。

 丁度、此の日のマスターは
近くを車で走っていたが、
前を走る車が遅いので
何時もとは違う道を
迂回して走っていた際に
香川ナンバーの路駐する車が
目に入った相である。

 大学近くに香川ナンバー?
もしや?と思って
車を停めて
私が店から出た処に
ご対面となった訳である。

 此の様な偶然は
何処にでも在る話ではないが、
恐らく、
神様、仏様が
今の私に必要な
出会いと思われたに違いない。

最初の師匠

 群馬県在住の歯科医師である
浅見裕先生が
御子息を伴われて
遠路、新潟まで
お越しになった。

 今春先に
高松の私の診療所へ
来られた時依頼の
再会である。

 先生は日本歯科大学の第44回卒業である。
私は第76回卒で、
先生の御子息と同級であった。

 先日、大学の喫茶店でたむろしていた学生達に
君らは何回生かと尋ねたら、
なんと108回生であるとIMG00205
元気よく答えてきた。

 浅見先生は
かように日本歯科大学の
大先輩である。

 先生は所謂
歯科補綴学の名医であった。

 現在、活躍中で、
団塊の世代の年齢辺りの
著名な歯科医師であれば
浅見裕の名を聞けば
皆が一応に
お世話になったと
口にする。

 熱く燃えるような熱情の
歯科医師である。

 先生は昨年末をもって
白衣を脱がれた。

 現在は
中国の古典経典の読解と
尺八を楽しむ
日々を過ごされている。

 私が影響を受けた
最初の師匠が、
浅見裕先生である。

 以来、私は熱情の歯科医師である事を
第一として心掛けて来たのである。

 先生の隣が
御子息である。

 彼は歯科医師であると供に
群馬県の某大学の解剖学の教授を務めている。

 此の私の親友は
寡黙な水の様な人柄で
私とは
全く対極の性格であったのだが、
何故かウマが合った。

 私の前に座る
此の父と息子の姿に私は、
心暖まる想いがした。

 私は浅見裕先生が
これからも御健勝である事を
心から祈るものである。

リンデ教授の叙勲の報に

 先日、何時もの様に
白龍大権現に出向いて掌を合わせ
近くのナッツで朝食を採っていた。

 テーブルの前で
末の娘が
モーニングを待ちかねて
此れも何時もの事ながら
アンパンマンの絵本を
眺めていた。

 新潟日報をパラパラと
捲っていた私の手が止まった。

 秋の叙勲を報せる頁に
【ヤン.リンデ78元ヤーテボリ大教授.歯周病科長】
と、在った。
【旭日中綬章】であった。

 先生もかほどに
歳をとられたのかと
驚くと供に
スウェーデンの地に在る
此の偉大なる歯周病の権威が
我が国に於ける
学問に与えた影響を考えると
当然の結果である。

 先生の
【私は自分の眼で直接確かめた骨しか信用出来ない】
との
先進技量による検査機器重視の姿勢よりも
何よりも術者の技量の向上に
指導の重きをおかれていた。

 何にせよ
誠に御目出度いニュースであった。