彼は不幸にも
家族に先立たれ
現在、孤独の身であった。
元来、朗らかな奴であったが、
現状、奴の瞳には
語れようも無い
哀しさが顕れていた。
酒で寂しさを
紛らわして
独りで
夜を過ごす様が
ありありと
伝わってきた。
「折れそうに為った時、
船で新潟まで出てくんだ。
そんでサ、
バスに乗って、
大学まで来て
中原先生の銅像観て
また、頑張らねばって思ってサ。」
此れは、彼だけの話ではない。
かく云う私も同じである。
否、日本歯科大学の同窓は
皆が同じである様な。
他の大学で学んだ人の事は
私には判らない。
が、
日本歯科大学では
自然とその様な
心持ちになる空気が在る。
足の不自由な青年が
雪の深い信州から
歩いて独り、
上京し、
苦学の果てに
歯科医と成った。
時は、富国強兵の
明治の世に在って、
国に歯科医の養成校の創立を求めたが、
歯科医は医師に非ずと
拒まれて、
私財を投じて創ったのが、
中原市五郎先生の
日本歯科大学である。
此の物語りを知らぬ
在校生は皆無である。
自主独立の
建学の精神は
卒業生達が
世に出てからの
支えとなっている。
中原先生の銅像は
東京の飯田橋の富士見坂の
本校前の通りに面しての処と、
新潟市の浜浦の
新潟校の中庭の
真ん中に
其の姿を
観る事が出来る。
中原市五郎先生の銅像は
日本歯科大学に所縁の在る人間にとっては
心の真柱とも云えよう。