カテゴリー別アーカイブ: ただの日記

シンドイ作業

昨日のことです。

診療所の電話が鳴り響いていました。

宮田君が患者さんとのお話しの最中でしたので、

珍しく、

私が電話の受話器を採りました。

女性の方でした。

歯の根が折れて抜歯したのが2、3年前であるとのこと。

その後、

ブリッジにて治療なさったこと。

直ぐに外れるブリッジであること。

その方のお話しから、

状況を推察すると、

以上の様でした。

女性の申し出は、

インプラント治療を希望されて居られること。

で、

安いので1本幾ら?

が、

その方の関心の中心であることが

直ぐに判りました。

私は安易なインプラント治療を否定しています。

歯の根が折れて抜歯に至り

数年経過した上の前歯の骨の

悲惨な姿は、

CT撮影するまでもなく

骨を扱ってきた歯科医師なら

判らない筈はありません。

骨の幅を増大しなければ

インプラントを受け入れる余地はないでしょう。

また、

上の前歯の修復治療の長期の成功は、

奥歯のシッカリとした支持が必須です。

簡単に外れるブリッジしかできない歯科医師の

手に委ねられた患者さんの口腔の状況も

容易に想像できるのです。

木を観て森を観ず

と云う言葉が在ります。

治療においても同じこと。

この女性への返答ほど、

私を困らせるモノはありません。

丁寧に、

紳士の対応でと、

そう、

思っています。

できるだけ、

明確でないように、

インプラントではなく、

ブリッジも考えにいれて、

他の歯科医院へと、

誘うように、

注意しながら、

お話しさせて頂きつつ、

相手が受話器を置くように

進める。

コレは結構、

シンドイ作業なのです。

無心に綴る

歯科技工士さんや、

歯科衛生士さんからの声を聞き、

私の診療所へお越しになられる

患者さんが、

少なからず居られます。

私は、

患者さんをご紹介して頂いた

歯科技工士さんや、

歯科衛生士さんを知りません。

ですから、

余計に、

新しい出会いの際においては、

今でも、

緊張するのです。

その方たちの

お顔を潰せませんから。

新しい患者さんの大半の

お口を開けて頂いての

私の心内。

コレは困った!

呼吸を整えるのが常となりました。

自分の持つ

全知全能を傾けて、

丁寧に、

丁寧に、

壊れた咀嚼器官の修繕を

綴る。

ただ、

無心で、

修繕に、

自分を封入する。

それが私の毎日です。

 

内藤正裕先生のこと

若い歯科医師の先生方からの

相談が増えたからでしょうか?

最近、

師匠のことを

何時も

頭のど真ん中に置いて

過ごすようになりました。

私の歯科医師人生を決定的に変えて下さった師匠が、

内藤正裕先生です。

私の若い時分から

先生は

知る人ぞ知る、

歯科の名工と言われていました。

看板のない歯医者さん。

電話帳に電話番号を載せていない歯医者さん。

日本一高い歯医者さん。

当時の私には、

その程度の認識しかありませんでした。

大学院で指導を受ける新米歯科医師だった私は、

大学教授の治療が最高であると信じていました。

ですから、

私が生涯の師匠と仰ぐことになる

内藤先生の仕事に触れた瞬間の

驚愕の凄まじさは、

皆さんには想像できないほどに、

天地がひっくり返す位だったのです。

ど心臓を持つ私です。

一面識もないのにも関わらず、

私は先生の診療所のドアを叩いたのです。

東京の麻布の閑静な住宅街の

小さな超高級マンションに先生の診療所が在ります。

田舎者の私は、

銀座などの大きなビルのテナントに診療所があることが、

成功者の証であると信じていました。

ですから、

住宅街のマンションの一室にある歯科医院?

意外に感じたのは、

間違いなく、

私が田舎者の証です。

で、

私は診療所のあるマンションの周りを

何度も何度も

廻ります。

私でも緊張したからです。

マンションの入り口をくぐるにも

勇気を必要とするほどに、

超高級さを圧倒する【気】が放たれていました。

内階段を登り、

金属製の古いドアの横に

小さく、

内藤デンタルオフィスと、

英語表記されているだけに、

これまた、

私は驚愕したのです。

このドアを開いた後から、

私は生涯が変わるなどとは

考えもしませんでした。

今でも鮮明に覚えています。

ドアの向こうには、

歯科医院はありません。

小さな狭い空間は、

丁度、

ニューヨークのセントラルパーク周辺の

古い石の建物にある超高級アパートメントの

玄関空間を思い出したのです。

鼻髭を生やした、

糊の効いた半袖のワイシャツにネクタイ姿で、

ニコニコ顔で、

出て来られた先生との

最初の出会いから30年近く経ったのです。

私が目に見えない力を信じる訳の一つに

先生との縁を頂いたことが在ります。

レオナルド・ダ・ビンチを

万能の天才と呼ぶように、

私は先生をダ・ビンチと

重ねて観ています。

先生の能力と知識、

そして探究心の旺盛なる人を

私は今でも知りません。

先生と同じ時代に生きたことを

私は誇りに思っています。

私の技量、知識のほどは、

今でも、

先生の足元にも及びません。

そういう意味合いにおいては、

ダ・ビンチの言葉通り、

師を凌駕できない弟子は不幸である

と云う代表格が私だと思います。

ただ、

面識ある無しし関わらず、

歯科医学を愛する者への

温かい迎えの精神だけは、

先生と同一レベルできる

唯一の手段であると思いたち、

若い歯科医師の先生方と接しています。

 

 

 

時代の名機

日常の治療の過程を

写真撮影して記録することが、

当たり前になったのは、

大学院生時代の

指導教官からのキツイ指導の賜物であることは

間違いありません。

治療の際には、

見えている積もりであったにも関わらず、

あとから、

見落としていることに、

気づくキッカケになったのが、

治療の写真記録です。

見えるものと、

診えるモノの違いに気づいたのです。

数年前からデジタルカメラの時代になりました。

シャッターを押した瞬間に、

画像が確認できることほど便利なモノはありません。

私の写真も、

デジタルカメラによるモノになりました。

レンズのトラブルにて、

ある日、

その日の治療の記録が出来ないことに

成りかねない状況に陥りました。

で、

棚の中に仕舞いこんで、

眠っていたメディカルニッコールを思い出したのです。

このカメラとレンズは、

当時の医学、歯学の世界においては、

記録する手段の道具としては

絶対的に安心して使えると

評価されていた名機です。

非常に高価なレンズでした。

20代後半の頃、

大学院生の私は安定した収入がありませんでした。

夜間診療と休日診療のアルバイトにて、

暮らし向きをたてていたのです。

この名機を購入するに際して、

大学の歯科材料屋さんから、

月賦払いにして貰ったのです。

アルバイトの翌日に、

手当ての一部を持って材料屋さんへと支払いに行く。

これが私の週ごとの

決まりごとになりました。

懐かしい思い出です。

それ後、

私の診療生活とメディカルニッコールは

切っても切れない間柄になりました。

その関係の終わりは、

デジタルカメラの出現によって訪れたのです。

数年降りに、

思いたったかのように、

眠りから起こされたメディカルニッコール。

彼にとっては

迷惑、勝手な奴と云うことでしょう。

デジタルカメラとメディカルニッコールの相性を考えず、

私は両者をドッキングしたのです。

で、

驚愕し、

デジタルカメラの便利さに感心すると共に、

当時の自分のシャッターボタンを押すと云う

単純な行為ですが、

そのことに懸けるエネルギーを思い出したのです。

両者は見事に適合しました。

デジタルカメラでは決して得られない、

大拡大の画像が、

眼前に拡がったのです。

が、

その画像を得るためには、

シャッターボタンは決して気軽に押せないと云う

絶対的なタイミングが必要であったのです。

私の毎日の診療は、

マイクロスコープによる大拡大でのスタイルが

普通になりました。

マイクロスコープ付属のデジタルカメラでの撮影も

慣れっこになっていたのでしょう。

しかし、

時代の名機の画像は、

時代の最先端のモノを

遥かに凌駕していたのです。

私の診療代の横には、

歯科用デジタルカメラと、

大きなバッテリーボックスと長いコードの附いた

メディカルニッコールが置かれるようになったのです。

歯科治療の際しても同じこと。

新しい治療が、

より優れているとは思いません。

そんなことを

再認識させてくれた

時代の名機がメディカルニッコールです。

幸せな私

私ほどの果報者は滅多に居ないでしょう。

師と出会い、

この方を一生涯の師と仰ぎ、

一生懸命、

師の背中を見ながら、

付いてゆきました。

歯科医学は当然のことながら、

人の生きる上においての

道なり、

やせ我慢も、

観せて頂きました。

隠す処なく、

不肖の弟子たる私に、

ご自身を晒けだして、

私を今日に導いて下さいました。

私のカトリック信仰に際し、

師は、

画家であったお祖母さんの形見である遺作を

授けて下さったのです。

この世でのイエスキリストの父親である

大工ヨゼフの絵です。

これから、

師と、

神様が、

私の診療所を尊い力で

包んで、

患者さんを護って下さることでしょう。

私は歯科医師です。

歯で本当に困って居られる患者さんに

いつも寄り添っていたいと思っています。

 

 

身体と歯科治療の調和

患者さんと長い期間、

お付き合いさせて頂いたことから、

教科書には記載されていない

貴重な記録を勉強させて頂いています。

人が老いてゆく過程での、

口腔の変化のドキュメントです。

私ら歯科医師の為す人工物を、

加齢での退行変性する身体と

如何に上手く調和させるかが、

私の毎日の仕事の関心ことになりました。

毎日、毎日、

新しい発見に胸が踊るのです。

歯科医師教育

人は発した言葉に責任を持たねばなりません。

特に、

治療に関わる言葉の重さは、

類いなき重さだと確信しています。

大学の構内に一歩立ち入った瞬間から、

私の身体は硬直しているようです。

歯科大学は、

歯科医師を養成する最高学府です。

科学とは、

反証を受けても、

それを認め、

再考を加えて、

更なる発展へと繋いでゆく

懐の深い学問です。

一つの学理に囚われて、

周囲が見えなくなる視野の狭さが

命とりになるのです。

学生への教育、

新人歯科医師へも教育、

中堅歯科医師への教育、

それぞれにアレンジが必要であることは

教育機関ですから、

ノウハウが確固として存在します。

その型に入って、

責任ある言葉を発するのが、

私ら先人の務めです。

大学は、

それほどまでに大きな責任を背負って立っているのです。

ですから、

私は母校の教官に敬意を評して接しています。

また、

学生たちへは、

もっともっと大きな敬意を評して接しています。

歯科教育とは、

自己自慢の場ではありません。

己を晒して、

恥をかく場であると、

私は肝に命じています。

歯科治療を見直す時期では

なんだか、

年々と、

仕事量が増えているように思います。

と言って、

何の取り柄のない私などが、

忙しいとは、

誠にありがたいことです。

寝たきりの方などから、

忙しいなどと云う愚痴めいた心に

お叱りを受けるに違いありません。

歯の仕事を通じて、

自分が変化している最中にあることを

しみじみと感じています。

それを成長と呼べれば佳いのですが。

毎日を。

まるで壊れた咀嚼器官の修繕に追われています。

最新とか、

最先端と云う、

根拠に欠けた手当ての成れの果て。

人の身体には、

絶対に変えてはならない【大原則】があると確信しています。

ですから、

私の治療はクラシック。

古典的な手法を組み合わせての大道芸人みたいなのかもしれません。

写真の一部には歯科医師の手による

人工の歯が残っています。

根拠なき部分に、

根拠なき形で、

ただ使われただけのインプラント修復です。

ですが、

まだ今は、

この歯を手当てする時期ではありません。

写真は私の手によるインプラントの歯型採りの模様です。

古典的手法からなす【正確さ】を重視しての手当てです。

次の次のステップにおいて、

初めて、

先のインプラント人工歯への介入に挑む訳です。

歯科治療とは、

誤差から生じた人工物を

より正確な軌道へと導くことに

ほとんどのパートが割かれるのです。

今、

歯科治療の有り様の再考が必要では?

 

生き方

お茶の水駅の構内を出でて、

聖橋を渡りながら、

眼前に

対照的なる【白い巨頭】の建物が、

街を圧倒する気を発しながら、

そびえ立っているかのように観えます。

官学の東京医科歯科大学と、

私学の順天堂大学医学部です。

順天堂の建学者は、

幕末動乱期に幕府への義を貫いた会津藩と

新政府の間で交わらせた戊辰の役の大きな戦いにて、

会津藩側へついた骨ある医師でした。

この二人の建物が並ぶ様を、

私は感慨深く眺めながら歩いています。

自主独立が建学の精神である日本歯科大学で教育を受けし私が、

順天堂贔屓になるのは、

自然の理であるかもしれません。

天皇陛下の手術を執刀した医師を輩出したことから、

順天堂の名前は一躍、

更に世間からの高い評価を得られたことでしょう。

順天堂の小林弘幸教授の著作も、

一見の価値高いものだと。

名医の定義、

良い医師の定義、

それを明言できません。

が、

私は小林教授は名医の一人であると思います。

それに至るまでに、

辛酸辛苦を味わい、

それでも、

素直に自分と向き合い、

ご自身の立ち位置を定めたことが、

痛いように伝わるのです。

要領良く生きる人、

なんとかなるさと流れに身を委せる人、

今だけに生きる人、

そんなことに無関心な人、

夢を抱き挑む人、

生きざま色々在るのでしょう。

私は大いに勉強になった小林教授の書籍でした。

人畜無害

最近では30代の女性が治療に多くお越しになられます。

治療においては、

私は若い女性は得意ではありません。

どう接して良いのか判らないのです。

今は私らの若い時分と違いますもの。

セクハラって思われたら怖いんです。

だから、

別の面で緊張するんです。

でも、

随分となついて下さる方も多いんです。

お料理をスタッフの宮田君のも含めて

お持ち下さる方も大勢いらっしゃいます。

本当にありがたいことです。

そんななか、

30歳の女性とお話しして、

先生、モテるでしょ?

ビックリしたのです。

私の日常は家と診療所の往復だけです。

そんな良い、嬉しい、心ルンルンの

若い女性に遭遇する機会など皆無ですもの。

若い時分には、

むちゃくちゃ遊びました。

女性との派手な交遊が芸の肥やしになるんじゃ!

そんな勝手な理由を付けて、

馬鹿やってた愚かな私です。

その結果、

私は悟りの境地に至ったのです。

女性は恐い!

ですから、

今は人畜無害の見本なんだと

大いに言えるのです。