困った時の・神頼み、
という言葉が・あります。
受験なり、
仕事での受注希望だったり、
家族や自分の健康上の事だったり、
果ては、
人間関係だったり。
人の欲望に際限は・ありません。
望めば・望むほどに、
人は、
四方八方に助言を求めたり、
最後は、
神仏から・ご先祖様も、
総動員してまでも、
祈ります。
かく言う私も・そうでした。
しかし、
人生は・甘くは・ありません。
祈りの甲斐なく・という結末も、
何度となく経験して今日に・至っています。
で、
未だ未熟な私ですが、
私なりに・肝にストンと、
落ちた心境が、
ある人を見ていて、
生じたのです。
祈りは唱えるのではなく、
祈りの人になる。
その・ような心境の変化を、
確かに・感じとったのです。
信仰を持つという行為・そのものを、
変な奴と、
非科学的な根拠に、
蔑まれる機会を、
この国では、
頻繁に経験します。
私からすれば、
非科学的な、
それとも、
科学とは無縁の人こそ、
信仰を否定する傾向がある・と判断していますが。
祈りとは、
念仏・お経を唱える行為では・ありません。
祈りとは、
祈願する心でも・ありません。
自分を捨てて、
人に尽くすことこそ・祈りだと・考えています。
仕事で頑張るのは・当たり前。
目標に向かって頑張るのも・当たり前。
でも、
バランスよく、
全てを要領よく、
上手くこなすことなど、
人には到底・無理な夢でしか・ありません。
ということも、
この歳になると、
納得できるように・なりました。
それでは、
1つの路など、
極めることなど、
持たぬ方が、
幸せな人生に違いありません。
ソレでは、
幸せな・人生って、
何でしょう?
私にも・判りません。
言えますことは、
祈りの人になる時分を創る事では・ないでしょうか?