月別アーカイブ: 2014年3月

生体に優しい治療 その1.

【歯面処理剤について】

歯を削ると、削った表層には決して眼には見えませんが薄い切削片で被われています。
この様な層を専門的にはスミヤー層と呼んでいます。

このスミヤー層は、細菌に感染した不潔な部位であるために取り除いた方が良いと言われています。
(この様な細かな事には無関心の歯科医が多いことには驚きますが‥‥)

スミヤー層を取り除く方法として酸溶液等を使用する時代がありました。

ところが、象牙質は硬い石ころの様に思われがちですが、
実際には、凡そ半分くらいはコラーゲンの豊富な有機質で出来ています。

酸は確実にコラーゲン繊維をアタックします。

今では研究室レベルではありますが、様々な歯面処理剤が開発されています。

私の診療所でも歯を削ったら、それは歯石等を取り除いた時に歯の根の表面に出来る切削層であっても、
何処でも、こら歯面処理剤を使います。

眼には見えませんが、身体に優しい治療が長持ちの要となると私は確信しています。

私の患者さんとの関わり方 その3.

以前は先生方の見学を受け付けていましたが、止めてしまいました。

不思議に感じていました。
見学から学んで頂きたい処、感じて頂きたい処が全く違います。

皆さん、内装や調度品にばかり眼がいってしまい、本来の私の意図が掴めません。

よくよく考えて観れば、私は恵まれた境遇に育ちました。
無駄から、遊びから学ばせて頂いた、若い時分から大人から学ばせて頂いた事の多いことに
今更ながら、感謝しています。

私の診療所の写真を何かで御覧になって、
ー 高そうな処! ー
と、二の足を踏んでしまってしまう方も居られるでしょう。

私の自宅の台所は整然と綺麗を心がけています。
私が外食する際にはクーポン券をフリーペーパーに出している処には行きません。
雑然とした食事処では落ち着いた心持ちにはなれません。

診療所とは、その医師にとっての舞台であると私は思っています。
私は、折角にも私の診療所にお越し頂いたのだから、
何から何まで患者さんが自己をさらけ出せる環境造りを第一にと考えています。

私が患者であれば、雑然とした医療機関は絶対に避けます。
医師なりの自己主張の無い医療機関は絶対に避けます。
プライバシーに対する完全な配慮の無い医療機関は絶対に避けます。
その医療機関に通っていらっしゃる患者さんのタイプに注目して、
私が其処へ行くかどうかを見定めます。

自分の身体はひとつしかありません。
その大切な身体に対して注意深く配慮して観てくれる医療機関を私は選びます。

私の診療所は何から何まで、目に触れる処、触れない処、
全てにわたって私が行きたいと信じる医療機関として創った私の仕事場です。

入れ歯について その2.

入れ歯はピッタリとしない、硬い食べ物が食べられない、いつか歯茎が痩せて合わなくなると
信じこんでいらっしゃいませんか?

入れ歯の治療は、歯科医の技がためされます。

かく云う私も若い時分には、入れ歯の治療を技工士に頼っていた頃がありました。

今では入れ歯は自分で責任をもって造ります。

型採りの方法も症例によって変えています。

人工歯の配列も、患者さんのお顔を観ながら行います。
それは、より若返って頂きたいという私の願いです。

噛み合わせは、患者さんの骨格によって変化させなければなりません。

今までの歯科の経験から、全力で取り組むのが入れ歯治療の醍醐味です。

但し、一度に何人もの患者さんの入れ歯を造る事は出来ません。

私は、お一人の患者さんの入れ歯が完成してから次の患者さんへ挑む事にしています。

入れ歯でも確りと硬い食べ物が食べられます。
他人目に入れ歯を入れているとは感じさせません。
長い間、皆さん大切に同じ入れ歯をお使いになられています。

どうか入れ歯を信用して頂きたいと思います。

インプラント治療を受けるにあたって その5.

随分と一般的になったインプラント治療です。

が、インプラント治療を患者さんに奨める歯科医側も、インプラント治療を望む患者さん側も
インプラント治療を受けた後の数十年後の姿をイメージ出来ているのでしょうか?

とうとう高齢化社会に突入した我が国です。
私の診療所の患者さんの平均年齢は68歳です。

長い間、インプラント治療に携わってきて、
20年前にインプラント治療をした患者さんの多くが介護の必要な状態になっています。

私は自身の患者さんに対しては訪問診療をしています。
が、全般、治療の必要な方は幸いな事に見あたらず、
どちらかと云えば、口腔ケアの必要な患者さんばかりです。

口腔内の磨き残しを綺麗にして清潔にする治療が中心です。

ここで注意しなければならないのがインプラント治療です。

脳疾患などにより咀嚼が出来なくなった方や、超高齢者ゆえの不随運動がおこって
いわゆる口のモグモグ状態になった方は、しっかりと噛みしめる行為が出来ません。

案外とインプラント治療はプラークには強いのですが、
噛む力が無くなって、インプラントに対して力が加わらなくなった時に無力である事を経験した歯科医は多くはないでしょう。

噛む力がインプラントを介して骨に伝わり、それではじめてインプラントは長期に渡って
骨との結合を保っています。

噛む力が加わらなくなったインプラントは、骨との結合が壊れます。

長い間、患者さんを拝見させて頂いての私の経験です。

ですから今ではインプラント治療を行うに際して、
どのような状態になってもインプラントに対して力が加わるような設計をしています。

また、不幸な事にインプラントに対して力が加わらない場合には
別の方法にてインプラントと骨との結合が維持できる対策を採っています。

経験から知恵をしぼるのが私達の仕事です。

3月11日を迎えて

私にとっても3月11日は、到底忘れる事の出来ない特別な日となりました。

3年経ったこの日には、テレビで繰り返し繰り返しこの日の状況が流されます。

私は、あの日の映像を観ることも聴く事も出来ません。

身体に戦慄を覚えるからです。

3月13日には、かの地で息子を見つけ出す幸運に恵まれました。

傷ついた息子を新潟まで避難させ、私はかの地へと舞い戻りました。

その後の10日ばかりの経験は、生涯私の記憶に、否、身体に刻まれて離れる事はないでしょう。

亡くなられた方々はもとより、今でも家族の元へと帰る事の出来ない霊魂へ、
また、不自由な生活を強いたげられておられる方々に対して、
おかけする言葉が見つかりません。

あの日の思い出と、その様な想いに、
自然と涙が頬を流れ落ちてしまいます。

東北の隈無くまでの、いちはやい復興と、其所に暮らす大勢の方々の心に安らぎが訪れます様にと
心から心から願ってやみません。

3月11日を目前に控えて

先の東日本大震災から早いもので3年が経過しようとしています。

あの日のあの時私は、大阪に向かって阪神高速を車で走っておりました。
ちょうど神戸にさしかかった時に、息子からの携帯電話が鳴り響きました。

高校受験を目前に控えた息子は、母親の暮らす宮城県に居りました。

ー 父さん!助けて! ー

その声を残し、息子との通話は一切途切れてしまったのは云うまでもありません。

ラジオからの報道は、テレビの画面からの映像は、私を地獄の底へと突き落とすものばかり。

息子の安否を探すべく、私は大阪で夜を明かしました。
息子が仙台駅で被災した事が判り、メールにて避難先を指示し、
私は、かの地への行路を日本海側からと決定し、
夜明け前の5時に大阪から新潟目指して北陸道へと車を走らせました。

朝の9時を過ぎたあたりから北陸道は雪、雪、雪。
チェーン規制で私の車は高速道路から下ろされる羽目となりました。

彦根の城が遠くに仰ぎ見え、その時私は確かに、神様に助けを求めて叫んだのを今でも鮮明に覚えています。

昼過ぎまで、季節外れのスノータイヤを探し求め、
吹雪の北陸道を走り抜け新潟市に就いたのは夜もすっかり更けた頃でした。

新潟での情報収集では、到底かの地に行くことは無理であるとの事。
届くかどうかは判りませんが、息子へ父は必ず迎えに行くと知らせ、
東北大学医学部病院前で時報0時を基準に二時間おきに10分間ずつ待つように伝えました。

新潟の自宅の窓の外は、降りやまぬ雪で、身体をかがめ膝を抱えて先を案じた私でした。

それでも恵まれていたのはガソリンを満タンに出来た事でしょう。
一律に2000円までしかガソリンを売って貰えない状況で、
私が息子を迎えに行くと知ったガソリンスタンドの店員さんは
黙って満タンにしてくれました。

ー お父さん、気ぃつけて行きなせぃ! ー

山形の県境まで日本海側を走り、雪ぶかい山越えをして大平洋側へとたどり着く間、
私は大勢の人の助けを借りました。

雪は七メートルも積もり、一車線程の幅の道の両脇には高い高い雪の壁が覆い被さり、
道下も雪で覆い尽くされ、車の前には果たして道があるのかどうかも判らぬ状況で、
不安に胸が押し潰されそうになり、顔が涙でグシャグシャになってハンドルを握った私でした。

仙台市の状況はまるで戦場の様でした。
声も感性も失いました。

車を置き、まだ行った事のない東北大学医学部病院へと走る走る私。

息子の名を呼びつつ走り回り、夕刻前に息子の姿が視界に入った時に私は
神様に感謝し空を仰いだのを忘れません。

息子は随分と人のお世話になった様でした。
車を返して一路新潟へと。

滑る車に親子で叫びながら、在るときは通行止めで何時間も雪の中で足止めをくい、
新潟の萬代橋に辿り着くまで生きたごごちがしませんでした。

息子の安静を見届けてから制止する息子に逆らい私が再び、かの地に向かったのは云うまでもありません。

私も息子も、親子共々、大勢の方のお世話になりました。
親として、人として、医療人として、私があの時に出来ること。

私はつくずく歯科医で良かったと感じたのはこの時です。

但し、あの悲惨な光景を今でも忘れる事は出来ません。
今でもニュースで当時の映像が流れると身体が自然と震えてしまいます。

私が歯科医としての自分を見つめ直す機会となったあの3月11日を迎える頃になると
自然と自身の足元を見つめ直す様になりました。