先の東日本大震災から早いもので3年が経過しようとしています。
あの日のあの時私は、大阪に向かって阪神高速を車で走っておりました。
ちょうど神戸にさしかかった時に、息子からの携帯電話が鳴り響きました。
高校受験を目前に控えた息子は、母親の暮らす宮城県に居りました。
ー 父さん!助けて! ー
その声を残し、息子との通話は一切途切れてしまったのは云うまでもありません。
ラジオからの報道は、テレビの画面からの映像は、私を地獄の底へと突き落とすものばかり。
息子の安否を探すべく、私は大阪で夜を明かしました。
息子が仙台駅で被災した事が判り、メールにて避難先を指示し、
私は、かの地への行路を日本海側からと決定し、
夜明け前の5時に大阪から新潟目指して北陸道へと車を走らせました。
朝の9時を過ぎたあたりから北陸道は雪、雪、雪。
チェーン規制で私の車は高速道路から下ろされる羽目となりました。
彦根の城が遠くに仰ぎ見え、その時私は確かに、神様に助けを求めて叫んだのを今でも鮮明に覚えています。
昼過ぎまで、季節外れのスノータイヤを探し求め、
吹雪の北陸道を走り抜け新潟市に就いたのは夜もすっかり更けた頃でした。
新潟での情報収集では、到底かの地に行くことは無理であるとの事。
届くかどうかは判りませんが、息子へ父は必ず迎えに行くと知らせ、
東北大学医学部病院前で時報0時を基準に二時間おきに10分間ずつ待つように伝えました。
新潟の自宅の窓の外は、降りやまぬ雪で、身体をかがめ膝を抱えて先を案じた私でした。
それでも恵まれていたのはガソリンを満タンに出来た事でしょう。
一律に2000円までしかガソリンを売って貰えない状況で、
私が息子を迎えに行くと知ったガソリンスタンドの店員さんは
黙って満タンにしてくれました。
ー お父さん、気ぃつけて行きなせぃ! ー
山形の県境まで日本海側を走り、雪ぶかい山越えをして大平洋側へとたどり着く間、
私は大勢の人の助けを借りました。
雪は七メートルも積もり、一車線程の幅の道の両脇には高い高い雪の壁が覆い被さり、
道下も雪で覆い尽くされ、車の前には果たして道があるのかどうかも判らぬ状況で、
不安に胸が押し潰されそうになり、顔が涙でグシャグシャになってハンドルを握った私でした。
仙台市の状況はまるで戦場の様でした。
声も感性も失いました。
車を置き、まだ行った事のない東北大学医学部病院へと走る走る私。
息子の名を呼びつつ走り回り、夕刻前に息子の姿が視界に入った時に私は
神様に感謝し空を仰いだのを忘れません。
息子は随分と人のお世話になった様でした。
車を返して一路新潟へと。
滑る車に親子で叫びながら、在るときは通行止めで何時間も雪の中で足止めをくい、
新潟の萬代橋に辿り着くまで生きたごごちがしませんでした。
息子の安静を見届けてから制止する息子に逆らい私が再び、かの地に向かったのは云うまでもありません。
私も息子も、親子共々、大勢の方のお世話になりました。
親として、人として、医療人として、私があの時に出来ること。
私はつくずく歯科医で良かったと感じたのはこの時です。
但し、あの悲惨な光景を今でも忘れる事は出来ません。
今でもニュースで当時の映像が流れると身体が自然と震えてしまいます。
私が歯科医としての自分を見つめ直す機会となったあの3月11日を迎える頃になると
自然と自身の足元を見つめ直す様になりました。