私の二度目の家人は14歳下の沖縄の人です。
南方系の善人と言えましょう。
好奇心旺盛な明るい質で、
直情型、
猪突猛進型の人で在ったことが
私を惹き付けたのだと思います。
私も情熱型の人間です。
しかし、
私は歯科医学と歩んで来た人間です。
また商家の生まれです。
学問にも、
人間と云う対象にも、
物事には、
表と裏が在ると云う事実を
生きる術として覚って来ました。
加えて、
人には生きて来た過去が在ります。
この過去は自分自身で背負うものであり、
他人が詮索すべきものではないと考えています。
隠し事や嘘を言うなら言わない方が良いと云う理屈が在ります。
本当でしょうか?
隠し事や嘘が不信感の諸原でしょうか?
お釈迦様も仰られています。
嘘も方便であると。
人には言いたくないこと、
触れられたくないこと、
沢山抱えて、
それでも先へと歩まねばなりません。
相手が誰で在れ、
私は丸裸にされるのを拒みます。
私は考えます。
不信感の諸原は、
強い嫉妬と、
小さな小さな勘違いの積み重ね、
そして、
矛盾を無理やりに分解分析すること。
それは生きて来た歴史の差に違いありません。
振り返って観ますと、
私の家庭運営は性急だったと思います。
池波正太郎氏の小説ではありませんが、
【人は善い事をしながら、悪い事をする】
【悪い事をしながら、善い事をする】
身を以て、
この苦い味を味わって来ました。
年端も往かぬ若い二度目の家人には、
せちがなく、早急に進む世間の事情など
いちいち説明するよりも、
舵取りは俺がする、
お前は黙って後から着いて来い!
その様な姿勢だったと自覚しています。
言い訳ではありませんが、
私が好いて一緒になった家人を
悪くする筈はありませんから。
しかし、
人には、
丁寧な説明ってものが必要だったのだなと、
今になって気づいたのです。
ただ、
複雑怪奇な私の頭の中身を
どうやって説明出来たものか。
また、
説明されても理解できるだけの人生経験と
受け止める心の準備が在ったのかは疑問ですが。
人と人との関わりとは、
誠に難しいものだと思います。
昨今の状況では驚かれるかもしれません。
時々、
私は患者さんを叱ります。
叱られた事で気分を害して、
もう診察に来れれないのなら、
それはそれで構いません。
認識して頂きたいと思います。
病気の治療は決して快適な行為ではありません。
坂の峠を乗り越えて、
初めて先が観えるのですよ。
その時々の患者さんの
自己診断と自己治療方法の決定に従えない時もあります。
私には医師としての大きな責任が在りますから。
無論、
丁寧に丁寧にご説明には尽くしますよ。
それでも、
判らない方も時には居られます。
その時は、
治療出来ませんから。
ご自身にてご判断して頂くしかありません。
家人との時間を振り返り、
説明して判ってくれたものかどうかは判りません。
ただ、
仕事ではありませんから、
私は説明していなかったことは後悔しています。
と共に、
触れて欲しくない処を、
焼き鏝で、
ジュウジュウと皮膚を突き刺される言葉を浴び、
それでも男だから、
呑み込んで糞にでも出してしまうのが、
世の習いだと。