其々の想いで今日の日を迎えたことと思います。
昔の記憶は鮮明に昨日の事のように覚えていますが、
最近のことはサッパリにて、これも歳のせいかと悩んでいます。
が、4年前の今日からの数日間の出来事は、生涯忘れることはできないでしょう。
人として、歯科医として私が生まれ変わった日ですから。
翌日に倅と、新潟駅にて待ち合わせの約束をしていました。
宮城県から私の第2の故郷である新潟にて高校へと進学するための受験を眼前に控えていました。
倅と愛犬の切符も既に倅のもとへと送り、
一路新潟を目指して、車を走らせていました。
阪神高速を神戸辺りを過ぎた時に、倅からの着信音が鳴り響きました。
ー 父さん!助けて! ー
プッツリと切れた携帯電話の応答はまったくありません。
車中のテレビ、ラジオでの報道は、時間の経過とともに私の奈落の底へと突き落としました。
取りあえず、大阪にて情報収集に努め、
夜明けとともに私は、北陸道で新潟経由で宮城県に向かう決意をしました。
が、生憎の雪、雪、雪。
道路規制にて彦根にて道路から下ろされてしまう始末!
朝の9時頃です。
初めての街で、スノータイヤを見つけるために走り回りました。
季節外れの雪のために、何処へ行ってもスノータイヤはありません。
諦める訳にはいかず、探して、探して、最後の最後に、
タイヤ舘の店長さんが一肌脱いで下さいました。
ー お父さん!息子さんの処へは絶対に行かせてあげます!神戸からタイヤ直ぐに運ばせます!
昼過ぎには、出発出来ます! ー
今での車中から彦根を過ぎる時に、タイヤ舘の方角に手を合わせて御礼するを常となりました。
大泣きして、店長さんにお礼を申し上げ、吹雪の彦根城を仰いだ日を忘れません。
深夜、新潟の自宅へと入りました。
本来であれば、今ここに一緒に居る筈の倅の所在は不明です。
警察でも、母校においても、危険であるからと
当地へと向かうことは止められました。
ー 時報零時を基準に2時間おきに10分間だけ、東北大学医学部病院前で立て!父は必ず行く! ー
とだけ、届くか届かないか判らないメールを送り、
朝の5時に新潟を出発しました。
荒れ狂う日本海を横目に北の山形へ、
そこからは雪の山を越えて大平洋側へと向かわなければなりません。
辿り着いた経路は判りません。
雪国の人情に助けられ、先へ先へと誘って頂いた恩情を忘れません。
夕刻、病院前でボロボロの姿になった倅の姿に、
私は神様、仏様の存在に確信を持ちました。
荒れた街を抜け出して、再び雪の山を越えて、
新潟の象徴である信濃川に横たわる萬代橋の姿に、
あぁ!生きているを実感したのです。
この間、様々なドラマがありました。
倅を落ち着かせて、再び当地へと舞い戻る決意をしたのは、至極普通のことでした。
こんな短い間に、私ら親子は大勢の方々に助けて頂きました。
家人を、娘を探して居られる方々がいらっしゃる筈だと!
東北大学医学部病院はロビーも、何処もかしこも怪我人、病人の手当てで精一杯でした。
歯科医にしか出来ないこと!
不幸にして命を失った方々の所在を確認できることが、私たちの使命です。
津波の恐ろしさ、原子力の牙を思いしらされました。
戦争を知らない世代ですが、仮に戦争がひと度起これば、
このような光景になるであろうは容易に想像出来ました。
多くの犠牲になられた方々とご遺族の哀しみの上に、
今の暮らしが在るのだと日々、痛感しています。
私も心に傷を受け、未だに癒えてはいないと思います。
地震の度に、鼓動が激しくなります。
この頃になると決まって流れる津波の映像に身体が震えます。
この数日は、静かに線香を焚いて、被災者の方々のご冥福を祈り、
お世話になった名前も知らぬ方々のお顔を思いだしながら、御礼申し上げて過ごします。