昨夜・遅くに、
携帯電話のベルが鳴り響きました。
私の患者さんからの電話でした。
受話器の向こう側から、
嗚咽が聞こえてくるだけの・数分間。
どうなさった!
しばらく呼吸を整える様が、
受話器越しから・感じられます。
で、
先生、娘が同級生たちから凄絶な虐めを受けているんです。
???
本来・私は子ども同士の諍いには関与しない主義です。
ですが、
黙って、
お母さまのお話しを聞いていました。
で、
グループ・ラインの画面を送って頂き、
画像を開いた瞬間、
思わず、
仰け反って、
躰が硬直したのです。
真っ黒のバック画面に、
そろそろ、死なないかな・
で、
多くの参加者の絵文字。
娘に絵文字の意味を解説して貰いながら、
通訳者の娘ともどもに、
私は怒りの極地に至ったのです。
このお嬢さんは中学1年生です。
私の患者さんでもあります。
私は電話を本人に代わって貰いました。
泣きながら、
嗚咽の中で、
もう・死にたいと。
堪えられませんと。
原因は、
さまざま在るでしょう。
それは予想できます。
このお嬢さんにも、
ターゲットになり得た種も・在ろうかと思います。
しかし、
集団で、
一人の人間に対して。
虐める側が認識しているのか・いないのか、
そのジャッジを下す時期は、
既に限界を越えています。
そろそろ、死なないかな・
この1行で、
虐めている側は・犯罪者の範疇に入ってしまったのです。
セクハラ、モラハラは、
現代社会では恥ずかしい行為です。
それ以上に、
集団での虐めは、
恥ずかしい行為を更に越えた、
最も許し難い犯罪行為なのです。
何故、私に?
受話器越しに、
どうしようもない想いでしたと。
拙い私の・キリスト教との関わりから、
学んだことが・あります。
教会は神聖なる処。
その教会でのミサに参加することは、
私自身が・神さまと、
心の中で、
直接・向き合って、
哲学することだと。
周囲の信者の方々の姿が、
ある時から・全く見えなくなりました。
自宅に居ても、
診療所に居ても、
神さまの存在を感じ、
哲学すること・
それが私の信仰になりました。
死海地域で起こった2000年前の異文化での出来事を
素直に消化できるほど私は、
お人好しではありません。
聖書は各論の集大成であり、
総論の消化なくして、
各論の理解は不可能であることに・気づいたのです。
人生は勝ち負けの連続なのです。
不条理の連続なのです。
でも結局のところ、
他人との競争より、
自己の弱さとの戦いにチャレンジし続けることが・
人生の大きな意味だと、
馬鹿でしょう?
今頃やっと気づいたのです。
集団的虐めは、
中学1年生の小さな・小さな心に、
負わせる荷物ではありません。
また、
我慢することを自分自身に言い聞かせる戦いでも・ありません。
私が母校の学生諸君と向き合うときに、
いつも・いつも、
頭のど真ん中に置いていることが・あります。
親御さんの命であるご子息をお預かりしてるんだと。
ご子息が、
母校を誇れることができるような、
充実した青春時代を送らせるンだと。
そこに一切のブレは・ありません。
それが教官の使命なんです。
朝、
即座に私は動いたのです。
ツテにツテをたどり、
そのお嬢さんの通う学校の首脳陣に繋がりました。
単なる教師の集団の学校であるのか、
真の教育者の居る学びの場であるのか、
早々に結果は・出るでしょう。
大人の意味を、
もう1度、
問い直す時代が来ているんじゃないでしょうか。