眼 を 【養う】 ため には  【3代】 かかる


幼い頃

明治育ち  の バアちゃん

から

今 考えれば

ありがたい  の  です が

厳しく  育て  られました。

 

畳 の 上 の 歩き方

から

茶道  華道

焼きもの の 目利き

などなど。

 

当時は ウットオシイ こと  この上 なし。

 

オマケ に

バアちゃん が 歌う 鼻唄 は

日露戦争 の 折の 軍歌 が 大半。

 

「杉野〜  杉野〜  杉野は  何処〜!」

軍神 と 称えられた  広瀬武夫中佐

で、

バアちゃん

涙ながら に 広瀬武夫中佐の 物語を

小学校 就学前 の 孫たる 私に

なんども なんども

とうとう と 語る の です。

(だから 今でも 鮮明に 覚えて いるの です)

ちなみに

私も この歌  ソラで 歌えます。

 

 

後に

司馬遼太郎氏 が 【坂の上の雲】 と云う 小説で

泣かせ どころ

と して 描かれて おりました。

その際

バアちゃん の 顔

思い出した のは  言うまでも  ありません。

 

食べ物

食べ方

ソレは  ソレは  厳しかった です。

 

 

叱られる  時の  常套句。

【眼を 養うには 3代かかる】

 

そう云う  環境で 育ちました

から

今の 時代

考えられない  【物指し】 で 育ち ました。

 

 

叔父は 叔父で 彼なりの 【基準】を 持って いました

から

尚さら

特異な 環境で

私は 少年期  から  青春期を 育った 訳です。

 

キタの新地  祇園

高校生 にて デビュー。

 

 

ジイちゃん  は  ジイちゃん  で

当時

日本初 の 【プレイボーイクラブ】

連れて ゆけぃ

【バニーガール】

お酌 して 欲しい ねん。

 

日本の 高度成長期  から  バブル

まで の 【輝いていた 日本】

私は 自由 でも あり

ある意味

厳しく も あり

そんな 時代を 過ごした の です。

 

何故

そんな 話題 を?

 

三枝デンタルオフィスに お越しに なられる 患者さん

辿った  歯科医院ルート

だいたい  決まって ルン  です。

 

特に  地方都市から の 患者さん。

 

例えば

橋を 渡った 近県の 歯科医院。

ほぼ

決まって ます。

 

この間

随分と ひさしぶり に

ソコの 【ホームページ】 閲覧 した の です。

 

自信満々 で 自己症例を 披露して おりました。

 

ウチの 青年歯科医師たち

仰け反り返って

通り越して

「なんなん ですか コレは」

「自費治療専門って あつかましく ない ですか!」

(オレっち に 聞くな よっ)

 

いろんな こと

聞いて くるん です。

 

結論と しては

 

この歯科医師

【視る眼が 無い】の だと。

 

その 例え と して

 

以前

街かど に 大勢の 人で 賑わって おりました。

 

なんだろう

興味津々 で

人混み を かき分けて

 

その 中心部に 至って

私は  絶句  した の です!

【痛車】 って 単語

初めて  知りました。

 

自動車が かわいそう。

 

ソレは  私の 価値感 で あり

 

【痛車】 の オーナー は

高い お金を 出して 喜んで

みんな に 観せて  ご満悦。

 

青年歯科医師たち に

「要するに 価値観の 違い とは 違う 眼が 腐って る のやっ!」

と。

 

すると

青年歯科医師たち

「車は 自己所有物ですが〜  治療では マズい では 無い ですか?」

 

ソコで

私は  彼らに 諭した の です。

 

「だから  常々 歯科以外にも 良いモノ に 触れなさい」

「眼を 養うには 遠回り」

「眼を 養う には 時間 も お金も かかる ん だぞっ」

 

いつも  言ってる 理由  判った だろう?

 

彼ら

確実に  成長  している  よう で。