日別アーカイブ: 2014年7月9日

古い体制の医局育ちの私としては

【今時の若い奴は‥】と云う台詞が出たら、それは歳をとった証拠であると言われます。
せちがない昨今、住みにくい時代となったと感じる私も、初老を迎えたからでしょうか?

私の様に、古い体制の【医局】で教育を受けた人間にとって、なにかと肩身の狭い昨今です。
医局の体制は、表向きは今も昔も変わりません。

医局の頂点に君臨する教授は、研究、教育、臨床の全ての総監督で、
博士号の授与に関する権限はもとより、治療方法や材料、機材の選択権は云うに及ばず、   
気にくわない部下等は、関連病院等へ簡単に飛ばせる位の力をゆうに持ち合わせています。

教授の下が、今で云う準教授である助教授で、その下が講師、ここまでが所謂幹部教官です。
医局を支えるのが大勢の医局員で、医局長を頭として助手が大半を占めて、その下に補手、副手、聴講生、研究生と続きます。

当然のことながら、力のある教授の医局には大勢の医局員が集まります。
それはそれは、独特の匂いのある集団と言えるでしょう。

上の言うことは絶対である社会で、不条理極まりない窮屈な処と言えるでしょう。

手術にしても、診断にしても、ある種のテクニックを必要とされます。
これには見本の様な理想の形があり、兎に角その理想形態にいかに近くもっていくかが勝負処であり、
皆がその事に凌ぎを削る訳です。

手術が上手な先生とは、兎に角も何も、理想の形を実践できる医師の事に他なりません。

研究にしても、最初はビーカー洗いから始まり、この過程で徹底的に綺麗さ、丁寧さを叩き込まれます。

酷しい医局とは、高級料亭や鮨屋の修業の様な処と考えて結構です。

手術中に上司から足で蹴飛ばされる事などしょっちゅうで、今時のパワハラ等とほざいていたら、
技術を取得する前に、医局からの場外ホームランである事は確実でした。

私の様に、博士の学位を取得するを目的とする大学院の人間は、更なる不条理との戦いに挑まなければなりません。
なんせ相手は、此方が博士になるまで耐えねばならん!との意識をもってを十分に承知しております故に。

但し、良い面も大きかった様に後になっては感謝しています。
他人から几帳面、丁寧、潔癖、完全主義者と云われる程に
雑さからは開放された性格に矯正された事は、人の身体を預かる身としてはとても重要な要素の体得できたと喜んでいます。

こういう処で学んだ者、学ぶ者は、同じ釜の飯意識がとても強くなります。
これが良い方向へ向けば、最強の軍団として力を発揮します。

ですから、同門からの裏切り等はあるはずもなく、皆が安心して他組織と戦う事が出来るのです。

但し、悪い方へ向けば、組織内の隠蔽めいた問題が生じます。

この様な処で学んだ者は、信じる者は徹底的に、かばう者も徹底的にの姿勢が顕著だと言えます。

こういうのをファミリー意識が強いと云うのでしょうか。

ですから昨今の、直ぐに寝返る、直ぐにチクる、疑う、居直る等の人種とは縁の無い環境で育成されるために
世にでてから騙される、人を観る目がない的なドツボに嵌まる人も多いのが現実です。

俗に云う処の、先生と呼ばれる奴にろくな奴は居ないとか、医者は幅の狭い人種である等との逆風に
堪えて忍んで、患者さんを観る毎日を送り続ける定めとなるのです。

しかしながら誠に人とは勝手なもので、医師としての腕は上へ上へと願うのだけれど。
世間並の楽しみや煩悩を捨てての芸一筋でなければ、凡そ腕など良くなる筈もなく、
それでいて了見狭いや、人間に問題があると木っ端微塵に叩くに頚を傾げてしまいます。

私などは、成りたくてなった歯科医の道でありますが、それでも多くのものを犠牲にしたと後ろめたい気持ちです。

他人の意見は真摯に聞き、受け止める方ですが、マトモな意見が少ないのも現実です。
厳しい、しんどい道を歩いてきた者は、楽チン類の匂いなどは直ぐに感知してしまうからです。

理想論は云うに易し、ただ、理想などからほど遠い処でも、【判った奴】とは意外と少ないものです。

まして私などは、佛様や神様からお誉めを頂ける様な人間ではないことだけは認識しているので、
芸の修業に己を置いて、しかも窮屈至極な女子供の喜ぶ人などには決して成れないことは
更に承知の介の舞台の袖と言えましょう。

長々と書き綴ったのは、明日の台風到来の最中、一路関西空港へと向かう列車の道中の徒然に、
最近のはらわたの煮えくり反りようが治まらず、と言って此からは貝のように閉ざして行こうとの決意にて
ノートパソコンを叩いての呟きと思って、読み流して頂きたい。

男というもの

池波正太郎の小説に登場する人物は、それが武士であったり盗賊であったり、それは全て作者池波正太郎自身を
投影したものであろう。

ひとりの人間の中に、これ程の多くの顔があるのかといぶしがる人は、
恐らく平坦な人生を幸運にも歩む事ができた人であろうが、
私などから観れば、薄っぺらな人にしか見えず、興味の対象にもならない。

また元来、男と女は全く異なる生き物であると認識せねばならない。
かくいう私も、つい先日その事を再認識させられる小事件に遭遇した。

女は口から生まれた生き物とはよくぞ上手いこと表現したものであるが、
当の本人は、口から先に出た言葉がどれ程に、あらぬ方向へと勝手に走り出す等とは考えの及ばないのであろう。

男は、窮した時に嘘をつく。
其れを嘘つき呼ばわりされれば、男は皆が去勢せねばならないだろう。

男は外で戦う定めを持つ。
すべての戦いに勝てる男はいない。
従って男は、叩かれた時の痛みや、負け戦の情けなさを否応に体感して成長する。

この過程で自然に男は、相手を傷つけない作法を身に付ける。
こういう事が自然と出来ない男は、先の民主党政権の為政者の如く、文字通り、身体を張った仕事が出来ないのである。

男にとっての作法を身に付けたるは、時に女の好敵手にされる危険性をはらんでいる。

私は、やはりヤヤコシイ事には関わりたくないので、もう女とは更に距離をとろうと再認識したに至るのである。

鬼平ではないが、にがり顔で、煙草を吸う位の事しか出来ないが。
目くじら立てるも男の恥と、我慢の一文字である。

男とは、そう言う生き物である。