日別アーカイブ: 2014年7月4日

青森の神様 その2.

私が歯科医を志したのは高校2年の頃でした。

幼い頃から、信仰心の厚い環境で育ちましたので、なにかにつけて近所の寺院の門をくぐり、
お地蔵様やお不動様に手を合わせる事に抵抗もなく大きくなりました。

ある時、お不動様の小さな庵でいつものように般若心経を唱えておりました処、
寺の女性の僧侶が入って来られて、私と共にお経を唱え始めました。

僧侶の叩く太鼓の響きにつられて、何時もより長くお経を唱えていたのを今でも鮮明に覚えています。

お経を唱え終ったこの僧侶は、にわかに振り返り、

ー ボク!歯医者におなりなさい! ー

と、口から出た言葉に驚いた心の内も、これもまた鮮明に覚えています。

当時の私は文学部志望でしたので、内心、今更理系に変更できる筈はないとは思ってみたものの、
どうも僧侶の言葉が胸に引っ掛かり、遂には歯学の道に大変換するに至った訳です。

かように人の人生とは面白いものです。

あの時に、あの言葉が無ければ、今の私は全く別の人生を歩んでいた事でしょう。

随分とヤンチャの限りを尽くしてきた私です。
後悔の念や、反省する事頻りで、決して他人にどうのこうの言える立場ではありません。

が、歯科の仕事だけは真面目に取り組んできたという自負はあります。

それは、心の内で、佛様に導いて頂いて就いた仕事であるという意識があったのだと思います。

私は技術の仕事と云うものは、自分との戦いであって、他の同業者との腕比べなどもっての他の事と思っています。

但し、私は弱い人間です。

他の歯科医の仕事を観て、安心したり、チョッと良い気分になる時もあります。

と言って、他の歯科医の仕事を観た処で私の技術の向上には役にたちません。
再び、毎日を自分の仕事に向かい合って、日々を過ごす事になります。

私は日本歯科大学の門を叩いてからズッと、良い歯科医になろうと思って来ました。
但し、この良い歯科医が、振り返って観れば私の中で変わってきたように思います。

今は既に黄泉へと旅立たれた先人達の書かれた診療録を手にする機会が多い私ですが、
皆が一様に、ご自身の診断であったり、技術であったり、悩む!と本音を遺されています。

私にとっての、良い歯科医を探し求めて、
本州の最北端にまで私は足を運んだのだと思っています。

強い東北訛りのタクシーの運転手さんがハンドルを握りながら、青森の神様と称した木村藤子先生は、
【歯で困った人を救うのが貴方の生きる意味!】
と、いきなり言われた言葉に私は、
私の云う良い歯科医の答えを見つけられた様に思います。

木村藤子先生は、何度も何度も私との会話の中で、涙を流しておられました。

私も既に五十を回った初老の人間です。
歯科の門を叩いてから今に至ったと同じ時間は残されてはおりません。

歯で困った人の力になるに残った時間を費やそうと、肝に命じて北の荒野の中をひた走る列車の車窓の風景を眺めながら
またこの地に来ようと思って後にしました。

青森の神様

【剣術と云うものは、一生懸命にやって先ず十年。このくらいやると多少の自信らしきものが出てくる。ところが、そこからもう十年、さらにまた十年、合わせて三十年も剣術をやると、今度はおのれがいかに弱いかということがわかる。四十年やると、もう何がなんだか、わけがわからなくなる‥‥。】

上の言葉は池波正太郎の小説での台詞です。
この中の剣術を、私の仕事である歯科道に置き換えても通じる真実だと、日々痛感しています。

歯科医に憧れて、憧れて、なりたくて、なりたくて、私はこの道に入りました。

無我夢中の三十数年でした。

未だ私は、歯科医学のなんたるかが判りません。

先日、縁が在って、本州の最北端の街を訪れました。

【青森の神様】と呼ばれているとは、ついぞ私は知りませんでした其の女性は私に、

ー 先生、歯で困っている人を救うのが貴方の生きる意味でしょ! ー

早朝からわざわざ玄関戸を開けて頂いて、沢山のメロンを切って頂いて、
長い長い時間を私のために、時には涙を流して向かい合って下さいました。

霊能者と人は、かの女性を呼ぶのだそうです。

科学を学ぶ私には、この様な現象を語る資格はありません。

しかし私は、神様を、佛様を心から信じて、毎日を手を合わせて暮らしています。

かの女性は、霊能者である前に、私は人として立派な人だと思います。

ご自宅から帰ろうとする私にかの女性は、小さな小箱を手渡して下さいました。

なかには金の小さなフクロウが‥。

そして箱の裏側には、

【この世の使命をはたすまで、やれば出来る、生きる! 木村藤子】