カテゴリー別アーカイブ: ただの日記

用心に用心を越したことはない

診療所から帰宅しても、

全く時間の余裕がない

今日この頃です。

マリリンは、

いつものように、

くっついてやるだけで、

満足しているようですが。

調べもの、

読まねばならないもの、

書きものばかり。

尻が椅子に糊でくっ付けられた感のある

日々を過ごしています。

マリリンは足元で寝転んでいます。

その大きな身体の、

頭やら腹そして脚を

テーブルに座って仕事する私の爪先は

交互に撫でてと云う塩梅です。

実験が1つ終わりました。

私は自分の手で確かめないと、

容易に診療に使うことができません。

メーカーの方にも、

片っ端からデーターを頂き、

参考論文も集めて頂いて、

その上で、

自分の実験室にて確認実験をする主義です。

神さまは信じますが、

データーは素直に信用できない

用心深い嫌な性格だと思います。

患者さんの状況を

良く読むこと。

良く考えること。

どのパターンに属するのか?

良く見極めること。

で、

どの治療方法を

どのような工夫でもって、

どこへ導いてゆくのか?

実験っていうのは、

どの過程での、

ほんの数寸のモノですよ。

知恵を養うには、

手先を使ってのチャレンジから、

そう思っています。

 

治療方法は子どもと同じ

昨日、

患者さんが仰いました。

インプラント治療して頂く積もりで来ましたのに、

納得して、

入れ歯を造って頂き、

とても良かったと思っています。

でも、

今までの歯医者さんは、

インプラントばかり当然のように勧めます。

入れ歯にすれば、骨が痩せるよ。

何度も造りかえないといけませんよ。

ブリッジは支えの歯に大きな負担がかかります。

いずれダメになりますよ。

その点インプラントは云々。

この類いの話しって、

耳にタコができるくらい良く聞く話しです。

私たち歯科医師に必要なことは、

正しい選択ができる眼を持つことです。

治療方法には、

それぞれの長短があります。

それを考慮して、

その患者さんに最も適した治療方法を選ぶこと。

子どもが3人いたとしましょう。

この子が可愛いい。

この子はダメだ。

そんな親はいませんよ。

それぞれの子どもの長短を知り、

躾を行い、

良い処は伸びるようにと。

それが親の自然な姿です。

インプラントが1番。

2番がブリッジ。

3番が入れ歯。

そんな歯科医師なんか、

歯の親と云う感覚がないのでしょうね。

患者さんの話しを聞きながら、

いつも、

そう感じています。

うちの大学の若い歯科医師たちには、

そういう感覚だけは

絶対に持たせないようにしようと。

私たち歯科医師は歯の番人ですもの。

医人教育

生涯研修と云うことで、

歯科医師それぞれは

自分目線で、

セミナーを受講したり、

勉強会に参加して、

生涯研修したつもり?になっています。

一口に、

歯科医師と言っても色々です。

判り易く云えば、

卒業仕立ても歯科医師なら、

大学教授も歯科医師なのです。

同じ免許さへ合格すれば、

患者さんからすれば、

同じ歯科医師ですから。

最近では、

若い歯科医師も優秀ですからね。

理論的にはドンドン言うこと言いますから。

でもね。

自分目線でのトレーニングなんか

プロスポーツの世界なんかでは

通用しませんね。

いかに優秀なトレーナーについて

指導して貰えるのか!

自分の能力や努力も絶対的に重要ですが、

才能を開花させるのは、

優秀なる第三者であるプロのトレーナーに

他なりません。

当然、

私にも優秀なトレーナーはいます。

一生頭の上がらない師匠であり、

アメリカまで出掛けて行って

個人的なレッスンを受ける訳です。

随分と長い間、

インプラントメーカーのインストラクターを務めていましたが、

この数年間は辞退しています。

講演なども同じ。

続いているのは、

クローズドの勉強会だけです。

何故って?

医療倫理から価値観の違う人に

何を教えても、

曲げて解釈するか、

端から

私の伝えたい事を理解できないからです。

自ら何かを掴みたいと

喉の渇きを自覚している人と、

教えて貰えることに馴れている人とは

全く同じ台詞を聞いても

受け取り方が違うのです。

これから母校の附属病院の臨床教授として、

第5学年の学生の病院実習、

そして、

国家試験に合格したての臨床研修医、

総合診療科の歯科医師への

実際の臨床を

教えることが私の仕事になります。

それは技術だけに留まらず、

物事の考え方から、

医療倫理、

そして、

人としての所作まで、

様々に及びます。

同じ水を飲んで

同じ釜の飯を食って、

歯科医師として育てられた

母校の後進たちです。

ですから、

私はお引き受けしたのです。

私の診療所での、

私の工夫や仕掛けなどの

全てを、

母校の附属病院の治療にて

公開しながら、

自らも患者さんの診療を行います。

恐らく、

酷しい教官と言われるでしょう。

それは覚悟の上です。

臨床は戦いですから。

しかし、

一番に酷しくするのは、

自分自身にです。

 

進歩

先週末の土曜日の朝、

師匠である内藤裕先生からの手紙が届きました。

今まで聞かされていなかった

先生のお生まれとお育ちになった環境と宗教との関わり合い。

手紙の最後は、

教育者としても、

臨床家としても、

宗教は必ず拠り所となる。

こう締めくくっていました。

私が洗礼を受ける頃、

併せて、

師匠も近所の教会へ出向くと。

最近、

歳のせいでしょうか?

涙腺が緩んでなりません。

そのような1日を診療で過ごし、

夕刻、

桜町カトリック教会へと向かいました。

祝福のために、

わざわざ岡山県倉敷市から、

ノートルダム学園校長の三宅シスターも

お越しくださいました。

私のカトリック信仰の契機となった方です。

額に香油にて、

十字を切られる際に

四国教区の司教さまが仰いました。

この印は生涯消えることはないのです。

共に神さまと過ごしましょう。

日曜日の朝のミサは、

正式なカトリック信者として務めることができました。

今朝も朝のミサで祈りを捧げ、

今、

診療所にて、

仕事の準備に取りかかっています。

私の中で、

何かが変わったようです。

 

セラミックインレー VS ダイレクトボンディング修復

色んなこと

言われる歯科医師がいますが、

断然、

ダイレクトボンディング修復に軍配があがるでしょう。

術前です。

セラミックインレーの成れの果てです。

修復物と歯の隙間を埋める

セメントが溶けて、

ギャップが生じています。

当然、

この部分から唾液が漏れて、

修復物に沿って細菌感染が起こり、

内部でで大きな虫歯。

セメントインレーを外し、

虫歯を取り除きました。

隣の犬歯にも

セラミックインレーとの接触部分に

大きな虫歯です。

で、

どちらもダイレクトボンディング修復にて。

いかがでしょうか?

境目は全くありませんよ。

洗礼式に臨む

今夜、

桜町カトリック教会にて、

洗礼を受けます。

私にしては珍しく白のワイシャツを着て、

これは今では28歳になる娘が5歳の時に、

二人でシンガポールへ旅行に行った際に、

娘が選んでくれたエルメスのネクタイ。

ちっちゃなウサギと鶏、そして卵を散りばめた模様のネクタイ。

私の干支がウサギであることを

幼い娘は知っていたのだと思います。

モッタイないので、

大切に置いていました。

復活祭と云えば卵です。

今日の晴れの日に、

このネクタイを選びました。

この1年近く、

神父さんを始め、

多くの信者さんたちの助けを頂きました。

特に、

岡山県笠岡市在の田中稔子さまが居られなければ、

私はとっくに

匙を投げて逃げ出していたことでしょう。

凝り固まった私を

暖かいお気持ちで、

支えて下さいました。

聖母マリアさまへの親しみの気持ちは、

間違いなく田中先生の影響です。

笠岡教会では、

いつも私の脇にて、

ミサの進行の助けをして下さったのです。

アベ.マリア。

恵みに満ちた方。

主はあなたと共におられます。

あなたは女のうちで祝福され

御胎内のイエスも祝福されています。

神の母、聖母マリア。

私たち罪人のために、

今も、

死を迎える時も、

お祈りください。

アーメン。

マリアさまへの祈りを捧げる際に、

横で唱和する先生の声を忘れたことはありません。

楽譜の読めない私の讃美歌は、

間違いなく、

田中先生の歌声を耳から覚えたモノです。

辛かった時も、

田中先生は横に座って、

一緒に十字架を眺めながら、

私のために祈って下さいました。

これからも、

大勢の方のご厚意に甘えて、

私は成長しようと思います。

その中で、

私しかできないことで汗を流し、

人のために祈りを捧げて

より良い意味のある時間を過ごしたいと思います。

 

種を撒く話し

ついこの間、

日本歯科大学の藤井学部長から、

心に残る言葉を頂きました。

私には、

個人的には意見が全く異なっていても、

この人の指示であれば、

自分の想いを封じてでも、

素直に従い、

ひたすら務める。

そんな希少な人物が

この世に二人居ます。

一人が師匠である内藤正裕先生であり、

もうお一方が、

この藤井学部長です。

藤井先生が未だ母校の講師時代からのお付き合いです。

先生は私よりも学年は1年年少です。

本来であれば、

先輩の私の方が偉そうにできるのですが、

先生の物事を観る視点に

ある種の驚きを覚えたのです。

私には無い物差しをお持ちです。

ですから、

やはりスピードご出世なさいました。

で、

先生から頂いた言葉と云うのは、

三枝先生、観せるご自分をお考えになられる時期かと。

???

三枝先生、あなたほど歯の好きな人は珍しい。

好きな歯で飯が食えるあなたは幸せな人。

多くの歯科医師を送り出してきた私ですが、

あなたのように歯で楽しむ人を知りません。

ただ、

もうそれはそうと、

良い意味での大人になって下さい。

学生も若い歯科医師も、

そんなあなたが羨ましく、

何故そんなに、

ノビノビできる?

みんながあなたを観ています。

良い歯科医師を創りたい。

その想いと職責を

私は背負っています。

何故なら、

日本歯科大学の学部長になってしまったからです。

他の大学なら、

そんなこと考えなくても良いんです。

自分ちの国家試験の合格率だけ

考えておれば良いんですよ。

ですから、

苦しいですよ。

自分の悪口をしばしば耳にします。

それでも、

平然としているのも、

私の職責が在るからなんです。

私がプロの歯科医師を教育する臨床教授の仕事を

決意してお引き受けしたのは、

藤井先生の下で、

一緒に汗を流したいと思ったからです。

子供からしばしば言われる台詞が、

パパは身体が大人で心は子供。

先日、

息子との雑談の中で、

何気無く息子が言った台詞。

父ちゃんはある面、

アダルトチルドレンやな。

そうだと思います。

色々と自分で思う処が大いに在るからこそ、

私はカトリックの洗礼を受ける決意をしたのです。

大学院で博士号を取得して、

当時の私の置かれた状況では、

自分で申し上げるのもなんですが、

私はエリートコースにいました。

が、

私は指導教授を張り飛ばして、

これは今でも学内の語り草になっています。

私は大学を飛び出したのです。

母校とは無縁と云うよりは、

干された20年を過ごしていました。

田舎街高松市で、

コツコツと、

良い歯科医師でありたいと、

誠実に歯の仕事に向き合っていたのは

間違いありません。

自分なりの歯の理想郷を私の診療所に創ること。

それで私の生涯は終わるのだと。

そんな私を引っ張り出したのが、

この藤井先生です。

10年の間、

次々と、

先生は私にアレコレと注文をつけてこられます。

私はノセラレたんですね。

藤井先生の魅力に。

三枝先生、入学してうちの学生は先ずあなたの講義を聞かされます。

今時の若者にとって、

あなたを見せるのは一種のショック療法なんです。

で、

4年の時に、

保存学であなたに再会する訳です。

今学内の人間で、

あなたの仕事を知らない人はいませんよ。

もう準備が整ったようです。

附属病院で、

あなたの仕事の実際を観せてやって下さい。

どのような診断をするのか。

そのために、

どのような検査を行うのか。

どうして、

そのような治療方法を選択したのか。

患者とどのように接するのか。

この10年の間、

知らないうちに、

私は藤井先生から育てられていたようです。

藤井先生からの言葉を

重く受けとめ1つの結論に至りました。

決して権威を降りかざすことなく、

奉仕の精神の医療を行う教授であろう。

奉仕の心の種を丁寧に育てよう。

その良い種が、

全国各地で、

良い歯科医師となって芽がでるように。

新約聖書の中の、

種を撒く話しを

藤井先生と重ねて読んだのです。

 

新しい命

カトリックでの【洗礼】の意味は、

この世で一度死に、

復活し新しく生まれる

と云うことです。

今週末の土曜日が

復活祭の日です。

十字架で肉体の死を迎えたイエスさまが

復活された日を祝う

2,000年も続いた祝福の日です。

カトリック教会は1年を通して、

この最大のセレモニーの日を迎えるために

毎日毎日の祈りを捧げながら過ごしていることを

この1年を通じて知りました。

一般ではクリスマスが

キリスト教最大のメインイベントみたいに思っていますが、

それは違います。

私はその夜、

カトリックの洗礼を受けます。

享年55歳と云うことになるのでしょう。

そして、

父と子と聖霊の力によって、

新しい命を授けて頂ける訳ですから、

今度の人生は

大切に使う積もりです。

新しい名前は、

師匠である内藤正裕先生がつけて下さいました。

聖母マリアさまの夫、

大工ヨゼフが由縁です。

私の仕事は、

歯の大工だからです。

私は大工の人生に徹底しようと決意しています。

毎日の歯の仕事を、

歯の大工として、

とにかく丁寧に綴ること。

歯の大工として、

後進を大切に養成すること。

歯の大工として、

病気の新たな予防と治療の方法を

探し求めること。

ある面においては、

変わり者、

傾き者の私の姿勢を

母校は観ていて下さったのだと

知りました。

私は歯が好きで好きで溜まりません。

そんな私を

母校はジッと観ていて下さったと

知りました。

私は母校に対して、

生涯をかけて、

恩返ししなければ気が済みません。

今までの私であれば、

ただただ歯のオタクの仕事で済んだのですが、

これから私の為す仕事は、

日本歯科大学教授に相応する仕事でなければなりません。

その重圧は相当なモノです。

暮らしの中での、

所作から一切を

私は生まれ変わった事実で

証明しなければなりません。

毎日を祈りを捧げながら過ごし、

父と子と聖霊との交わりの中で、

私の指先に、

聖霊の力が宿り、

良い治療ができますように。

良い後進医師の教育ができますように。

良い学生教育ができますように。

良い研究によって歯学の発展に寄与できますように。

心を込めて神に祈り、

感謝と賛美を称えます。

 

 

 

 

私の母校

私の所属する日本歯科大学について、

少しばかり、

お話しさせて頂きます。

創立者は中原市五郎先生です。

長野県山間部の農家の生まれだと記憶しています。

先生は幼少期より、

片方の脚がご不自由であったとか。

少年から青年に至る頃でしょう。

先生は徒歩で上京されたそうです。

江戸幕末から維新の頃です。

当時の歯科医師の教育は、

徒弟制度で成り立っていました。

今で云う歯科医師国家試験は、

開業認定試験と云うもので、

先生も当時の制度で歯科医師となられたのです。

開国により海外からの進んだ制度の吸収に積極的であった政府は、

本格的な医学教育に力を注ぎます。

旧帝国大学に次々と医学部が設立されたのは

そういう事情です。

先生は歯科の事情を踏まえ、

我が国での歯科医師教育の充実性を強く認識されておられました。

そこで国に強く歯科医師教育機関の設立を求めます。

が、

歯科医師は医師に非ずという国の認識から

門前払いになったと云うのが現実でした。

ついに先生は私財を投じて、

ご自身の強い意思を実現される行動を採られます。

現代の皇居近くの、

パレスホテル付近になりましょうか。

共立歯科医学校を設立されました。

明治40年の学校設立法設定の伴い、

名前を日本歯科医学校へと変更し、

今の東京キャンパスの在る飯田橋へと移転し、

その後、

日本歯科医学専門学校から

日本歯科大学へと組織を進化させられたのです。

今でこそ普通に歯科医院で薬は処方されますが、

歯科医師は医師ではないと云う理由で、

当時の歯科医師には、

その権利はありませんでした。

注射も同様です。

薬の処方の権限、

注射行為の権限など、

日本歯科大学が働きかけて得た歯科医師の職域は

数限りありません。

口腔外科と云う標榜も

日本歯科大学の仕事の1つです。

ここに日本歯科大学が歯科の源流と言われる由縁があります。

昭和の成長期になると、

今では考えられませんが、

歯科医師数が全く足りませんでした。

そこで伝統校である日本歯科大学は動きます。

裏日本側の地域を選んで、

第2番目の歯学部を設立します。

昭和47年に新潟校が設立されました。

日本歯科大学のフロンティア精神の表れでもあります。

創立時の経緯から、

【自主独立】が建学の精神です。

現代においても、

国からの助成金を全く受けない唯一の大学であることからも

建学の精神は脈々と続いています。

大学の学長は、

市五郎先生からご子息の実先生へと引き続がれ、

その時代に、

日本歯科大学は先の大きな発展を遂げました。

当時の武見太郎医師会会長と歯科医師会の中原会長のコンビが

保険医総辞退と云う行動を一糸乱れず採ったことは

語り草になっていましたが。

今は実先生のご子息である泉先生がお務めになられています。

日本歯科大学は中原学校と言われています。

私たち卒業生は、

それを当たり前だと、

自然にそう思っています。

【歯学は私学によって創られた】とも言われます。

歯学は中原学校日本歯科大学の手で

進化しているからです。

近年、再生医療の観点から、

【歯のバンク】も東京キャンパスと新潟キャンパスに設けられました。

先の先を観て行動に移すと云う泉先生のお考えの結果です。

私たち卒業生は、

このような空気の中で、

歯科医学を学びました。

他校の卒業生と匂いが違うことは

当然の成り行きだと思います。

私は母校の教壇に立つ時には、

他での講演の際とは全く違った

大きな責任を感じています。

それは、

日本歯科大学の教壇に立つことの名誉を熟知しているからです。

一般の皆さんが、

歯科界の歴史や事情に疎いのは当然ですが、

我が国の歯科界は、

このような経緯にて今日あるのです。

 

 

決意も新たに

教授会にて承認されたと云う連絡を受けて、

数名の教授から電話にて、

祝福を受けました。

私は日本歯科大学にて、

歯科医学のいろはを学びました。

云わば、

此処が私の歯科医学の源流です。

この度、

名誉ある我が国最古で最大の歯科大学である

日本歯科大学 新潟生命歯学部 附属新潟病院 総合診療科の

臨床教授を拝命されました。

誠に名誉なことであります。

私の診療所と新潟病院の掛け持ちの生活になりますが、

もうこの生活にも慣れてしまいました。

学部の方も併任で歯科保存学を担当します。

私の好きな信濃川、そして萬代橋、

通りの柳に、

冬の雪景色は、

当分の間、

私の心を支えてくれるでしょう。

私は母校の門を叩いて、

青春期の毎日毎日を

歯一色で過ごす学生諸君が

可愛くてなりません。

伝統の日本歯科大学、

その伝統のなかに、

チャレンジの味付けで独自の教育を実践する

フロンティア精神溢れる新潟校が好きです。

精一杯、頑張りたいと、

皆さんにお約束します。

そして歯科医療不信感の高まる昨今ですが、

新しい良い歯医者さんの育成に

余生のエネルギーを費やす所存です。

といっても、

三枝デンタルオフィスが私の本拠地であることに変わりません。

私以外の歯科医師に留守を守って頂く気持ちはありません。

私の留守の日は、

スタッフの宮田君が電話番と

医院のメンテナンスや、

私の苦手なパソコンでの教材作りで、

診療所を守ってくれるので、

ご不安が在れば、

ベテランの宮田君が正しいアドバイスをしてくれるでしょうし、

直に私に連絡をとる体制は整っていますので、

ご安心ください。

診療が終わってから、

車で北陸道を駆け走り、

朝日を仰ぎながら新潟へ入り、

大学で仕事。

数日間滞在して、

再び、

仕事が終わってから新潟の高層ビルを後にして、

朝日を仰ぎながら、

鳴門大橋を渡り、

で、

高松で診療。

高松市と新潟市は850キロも離れていますからね。

夜に移動するしか、

時間の節約ができないのです。

神さまのお導きだと思っています。

私は生涯、歯の職人であり、

歯の番人であり続けることが、

私の生きる意味だと覚悟を決めましたので。

高松市、新潟市のピストン運行で、

残り人生を駆け走ります。