私の側には幼い頃より、ボロボロに朽果てて吊り紐は千切れてしまった皮のケースに入った双眼鏡がありました。
ありましたという表現であるのは、愚息が高松から離れる際に、手渡したからです。
愚息と供に、一時は宮城へと。
で、宮城から宅急便で新潟へと配送した数個の段ボール箱に入れられたこの双眼鏡は、
あの東北大震災に遭遇し、
この双眼鏡を入れた段ボール箱だけが、
無事に新潟の自宅へと届けられました。
この双眼鏡は、母方の祖父の片身の品です。
祖父は帝国陸軍の士官でした。
伝統の乃木部隊である善通寺にて軍馬に跨がる軍服姿の写真を覚えています。
祖父の一人息子である私の叔父は海軍兵学校から駆逐艦乗りとなり、
そして終戦。
その後は婦人科の医師になった事は、先にブログにて認めた機会があります。
戦争や軍隊の話しなどを容易に語ることの出来ない変な国に、この国はなりました。
叔父も私も、人の病気に関わる仕事に就くことになりました。
片方は人を殺め、もう片方は全く逆の性質である仕事のようにみえますが、
私は、その様には思っていません。
仕事とは、目に見えない力が働いて縁が生まれ、
その上で、精一杯に勉めさせて頂くモノだと思っています。
仕事とは勤めるものではなく、勉めるモノだと信じて、
歯を喰いしばって過ごしています。
目には見えない力というモノを、私は信じています。
その力の前では、科学などは儚いモノだと疑っていません。
科学者の風上にも置けない奴だと想われても構いません。
私は私です。
患者さんの診察の際に於いても、
科学者の眼と、
科学では説明出来ない【勘】を
自分の眼と指の先に結集させるのが、私の仕事です。
この双眼鏡は、今後も愚息と供にアチコチさ迷う事になるでしょう。
父たる私にしてみれば、それが精神安定剤の役目となっているのだと思います。