普通であること


光陰矢の如しと申しますが、月日の経過は誠に速く、

その間に生じた様々な出来事を振り返ると、

やむなくと云った処あり、自分を褒めてやりたいことあり、ハタマタ反省ありと云った処です。

多くの子宝を授かった私ですが、男子は独りしか居りません。

今日、この愚息の20歳の誕生日を迎えられましたことは、

父として、数ある中の通過点の1つを、一応の処は辿り着けた安堵感を覚えます。

常々に、私は【普通】という言葉を意識して生きてきました。

但し、最大公約数的な、皆と並んで皆と一緒にが【普通】の定義であるのならば、

意識して【普通】に背を向けてきました。

この生き方が、正に負に向かったのかの判断を、私は行う資格はありません。

様々な角度からでありましょうが、

私は自身を愚息にさらけ出すを意識して接してきました。

愚息が生きていく上に於いて、情けない想い、悔しい想い、挫折を味わう機会も在ろうかと思います。

親父でも、あれ程にもがいていたんだ、堪えておったんだと、

必ずや脳裏に思い出すことが在ろうと思ってのことでした。

歯科医という仕事を私は、職人仕事であると確信しています。

職人とは、道具と芸事の対象にだけ向き合うことが、精進の第一歩であると考えています。

で、その姿勢を、横目にふらつかないで貫くこと。

このような案配ですから、ある意味バランスの欠けた生き方であるとも言えましょう。

しかしながら、この仕事に就いて、そうすることで芸の足しになるのであれば、

私はその方略を選びますし、また実行してきました。

愚息が今後、どの様な選択の岐路を迎えて、どのように判断するのかの良否をする資格は私にはありません。

今まで通りに、遠くから見守ってやるだけ。

愚息の前にある道が拓いて下さいますようにと、

越後の神々に手を合わせてお願いするだけしかできません。

日本の男であることは、確りと胸に刻んで進め!進め!と願う

何時まで経っても、やはり大いなる親バカ降りは変わっておりません。