今 しか できない ことを


私が 中学生の頃だった でしょうか?

さだまさし さん が

唄で

母が まだ 若い頃 ボクの 手を ひいて~

無縁坂 という もの悲しい 唄が ありました。

最近 

時々 その歌詞を 思い出すのです。

思えば 縁の薄い 母と私では ありました。

思い出せば

腸の 煮え繰りかえる 想いも 味わいました。

でも、

幼い頃の 母の 大きな掌の 暖かさも 覚えています。

だから、

許せたのだと 思います。

母を 引き取って 2年が 過ぎました。

日に日に 

人が 衰えてゆく さまを 観て

私は 多くのことを 母から 最後に 学んでいるようです。

母は 頻繁に 口にする ように なりました。

新潟へ 連れてって。

川に かかる あの橋 と

ホテルオークラに 連れてって 

額縁の中に 入ってから 行くのは 嫌だよ と。

仕事で 新潟へ ゆく ことに なりました。

新型コロナウィルス蔓延の中

私は 勝負に 出たのです。

母を 一緒に 連れてゆくことに したのです。
母は 歩行が 困難に なりました。

新型コロナウィルスが 落ち着いた頃には

母は おそらく この世に いないと 思ったからです。

神戸市で 治療を受けさして

即座に 

車を 一路 新潟へと。

母の 好きだった オークラホテル新潟の ロビーは クリスマス一色でした。

母が 喜んだのは 言うまでも ありません。

仕事の間は

旧知の 友人が 母を看て くれました。

仕事前に

母の 車椅子を おして、

信濃川に かかる 萬代橋を 歩いて 渡りました。

萬代橋 と オークラホテル新潟を 背に

通行人が 写真を 撮って くださいました。

母 88歳 
息子 59歳

お互い 歳を とりました。

私は 今 全般、

今しか できない ことを 優先して 過ごすように なりました。

私にとって 

歯科医学は 命です。