高松市郊外 の 三木町に 移転した
私の ご先祖様 の 墓地。
実は
私が 開業する際
銀行からの 借り入れ金 の 中に
墓地 の 移転の 経費も 含めて 借り入れを お越しました。
もう 30年以上 も 前 の 話し です。
私は 父とは 生涯
合間見えない 仲 でした。
父は 商家の 跡取り 息子。
典型的な 若旦那。
祖父が 88歳で 亡くなる まで
実印さへも
祖父に 預ける ほど
親に 弱い 性格でした。
本人的にも
想う ところ 在ったん でしょうね。
仕事 より
さまざま な 団体 会 の エライさん ばかり
引き受けて
ゴルフ 麻雀 カラオケ クラブ 活動に 精を だして おりました。
父には
多くの 弟たち 妹たち が おりました。
時たま
彼らが
祖父 の もと に 訪れて
雑談 に 興じる のを 接し
青年期 の 私は
ある意図を 察した の です。
いつか 相続で 揉める だろう と。
私は
先手を 打って
親類縁者
もちろん 両親 にも 内緒で
歯科大学を 受験しました。
合格すれば
母 の 兄である 婦人科医 の 叔父が 助けて くれる。
そう 考えて
早稲田出身者ばかり の 我が家 の 掟を 破って
日本歯科大学に 入学したの です。
思った 通り
私は 三枝家とは 絶縁状態 に なりました。
時は 流れて
私は 歯科医師に なり
大学院 にて 歯学博士号を 取得して
商家 の 跡取り息子 の 立場を 放棄した 矢先
祖父が 亡くなり ました。
四十九日を 過ぎて
父は
兄弟 姉妹 連合で 裁判を 起こされ ました。
会社 の 経営権 を 巡って の 裁判です。
実は
私には 生みの親 とは 別の 親が おりました。
ただ
実際に
私を 溺愛して くれたのは
その 祖母だった の です。
私 の 生き方 に 大きな 影響を 与えた のは
婦人科医である 叔父 と その祖母なのです。
私は 近い将来 起こるで あろう 父の 裁判を 予想して
三枝家 の 墓地
と
叔父 の 先祖
私の 母方に 将来 起こるで あろう 問題を 鑑み
母方 の 実家の 成瀬家の 墓地の 移転墓地 を 準備したの です。
三枝家の 墓地は 裁判後 直ちに
成瀬家の 墓地は 今から8年くらい 前に 役に たちました。
【常に 備えよ】
ソレが
私が 祖母 叔父から 学んだ 人生訓 です。
墓地は 箱庭 の ような 讃岐平野 高松市郊外 の 三木町に あります。
私の 自宅から 車で 20分程度 の 場所に
三枝家 と 成瀬家 の 墓地
並んで 建立 しています。
三枝家の 墓標は 4代前から ですが
成瀬家の 墓標移動 大変でした。
成瀬家が 犬山から 讃岐に 移転してから ですから
江戸期 中盤くらい だった から です。
遺骨の 埋葬手続き も 四苦八苦 しました。
役所手続き 大変 なのです。
今
時代 は 【墓仕舞い】の 方向に ある のだ そうなっ!
判らない 訳では ありません。
教育 思想 が 戦後 激変 しました から。
しかし
私は 大きな 違和感を 感じます。
ご先祖様 在って の 自分ですから。
ただ
自身 の 子ら を 観
コレまた
大いに 考える ところ 在り。
私は
毎月
墓地の 掃除を します。
顔知らぬ ご先祖様 も 多い の です
が
小遣い せびった バアチャン ジイチャンも 眠って います。
血 の 流れ を ひしひし と 感じます。
父の 墓標。
遺骨は ありません。
他家に 嫁いだ 姉が 返還しない から です。
もしかしたら
私との 相克あった 父の 遺言かも しれません。
が
祭祀 に 関して
他家に 嫁いだ 者が 短慮に 判断すべき では ない
と
私は 考えて います。
父の 墓標に 手を 合わせて
【男】して 想う ところ 無い のか?
と
問い ながら
ソレでも
父の 性格柄
やむを得ない こと かも?
と
言葉なき 会話する 今日この頃 です。
ただ
確信いたします のは
私 の 背後には
大勢の ご先祖様が 守って くれて いる と。
最近
ヤタラ と
草ボウボウ の 墓地が 多く なりました。
私の 子ら。
どう 考えて いるのか
私は 問うた ことは ありません。
私は カトリック信者に なりました
から
この墓地に 埋葬される ことは ありません。
が
遺された ご先祖様を 考える と 頭 痛い のが 事実です。
私には
【墓仕舞い】など バチあたり な こと
到底 デキません から。