私の 日課です。
診療室の前の 小ホールに設けた 祭壇にて、
診療開始前 と 仕事終わりに
祈りを 捧げるのです。
私の カトリック名は ヨゼフです。
聖母マリアさまの 夫であり、
生業を 大工として、
神さま から お預かりした 神の子 イエス キリストの
この世での 父として 生涯を 終えた 人物です。
私の この カトリック名は、
師匠である 内藤正裕先生が 命名して くださったモノです。
四半世紀以上 私は 何かと この師に 相談しながら
暮らして きたように 思います。
洗礼を受ける際も そうでした。
師の 言葉は、
バカヤロウ!
やっと その境地に 辿り着いたのか!
なぁ~にぃ~?
カトリック名だとぅ~?
バカヤロウ!
俺らは 歯の大工!
だから ヨゼフに 決まってるだろ!
こういう会話って、
今の人たちからすれば 違和感が あるのかも しれません。
それならば、
そうしか 感じられない方々は 不幸な 人たち なんですよ。
師の 愛情と 情熱が、
このような 表現に なるんですから。
洗礼の後、
分厚い 聖書と、
著名な画家であった 師のご祖母堂さまの 描かれた
聖ヨゼフ像を 突然 私の診療所へと 贈ってくださいました。
その 聖ヨゼフ像を前に
私は 祈りを 捧げるのです。
科学は 万能では ありません。
未だ 私は 修行の道半ば。
それでも、
患者さんへの 手当てを 行うことは
恐くて 恐くて 堪らないのです。
無知なる 医師ほど 愚かなモノは ありません。
ですが、
知れば 識るほどに、
眼には 決して 見えない 存在を 感じるのです。
今、
歯科医療の 進む方向性に対して、
私は 大いなる 疑問を 感じています。
人の持つ 能力は 無限です。
鍛えれば 鍛えるほどに、
五感 以上の 感性と 技が 生まれます。
それを、
放棄している ようにしか 思えないのです。
CT 画像を そのまま 信じる 浅はかさ。
3Dカメラから ミリングマシーンで 削りだされた 技工物。
なんでも かんでも セラミック。
アホウの 一つ覚えのような ニッケルチタンファイルを使った 根管治療。
咬合器も 使わない 修復治療。
人は AI などには 決して
負けません。
自分自身の 技を 磨くことの 継続から 生まれたのは
祈り だった のです。
人の 手当てを 行うことは
人を 視なければ なりません。
そして、
なによりも、
患者さんの 幸福を 祈りながら
総合的見地からの 治療の実践こそが
医療人たる者の 務めなのです。
こんな ちっぽけな 私の手です。
それでも 私は この手に 命をかけて います。
てな 偉そうな こと 言ってますが、
こんな風に 患者さんの お話しに 耳を傾けての 毎日です。