次の・日曜日。
父が・亡くなって1年の・命日になります。
父が、
何処で、
どのように、
で、
葬儀は、
いつ、
何処で、
行われたかを、
報されて・いません。
死後、
数カ月・経て、
人伝に、
母が施設から・迎えに来て欲しいと、
泣いて毎日を・過ごしていることを知り、
教えて頂いた・母の携帯電話で、
母との・最後の会話を交わしたのが、
昨年の・敬老の日でした。
母には、
来週には・迎えに行くと・伝へた事で、
母は・安堵したようでした。
その時、
父の遺骨は、
母の横に・在る事、
戒名も・母が知らぬ事で、
私は、
ある種に属する人・特有の思考回路と・所作を・理解したのです。
ただ、
息子が迎えに来てくれる事で、
頭が・いっぱいになった母に、
難しい事を・話しすることは・酷だと判断し、
電話してね!
迎えに来てね!
それが・母と私の永遠の別れだと、
腹をくくったのです。
翌日、
母の携帯電話は、電源が・切られていました。
その翌日、
母の携帯電話は、解約されていました。
その数日後、
東京の法律事務所から、
遺産放棄を求める通知を・受け取りました。
即日、
顧問弁護士に手続きを依頼し、
遺産放棄を・行いました。
父は・大きな【商い】を営んでいました。
生前、
国税局から脱税捜査を受けた経験もある、
ある種の知恵と・価値観を持った・商人でした。
姉夫婦は・税理士事務所を・開設しています。
姉夫婦の・生き様が、
私の流儀とは、
全く・違う匂いがする事が、
付き合い・しない訳でした。
ただ、
私の血には・代々の商人のDNAを引き継いでいます。
また、
姉夫婦の・知恵より、
私の・知識と情報網・人脈は、
遙かに・彼らを凌駕しています。
彼らの持つ・資格の倫理観を、
私は・知りません。
が、
私は医療人です。
医療人は・無垢である事が・医療の最低条件であると、
私は・自分自身を・戒めて・過ごしています。
清廉潔白が・医療人の条件だからです。
一生懸命・働いて、
一生懸命・納税して、
一生懸命・経営しながらも、
患者さんファーストを・貫いて来た半生に、
プライドを・持っています。
そういう意味においては、
私は・三枝家の流儀とは、
全く違う・価値観を持っています。
友人・知人たちは、
法律の裏をかく人には、
法律論でない、
別の手段が有効であるから、
任せて欲しいと云う厚意と、
馬鹿に・された私の想いが、
交錯したのは・事実です。
が、
私は資産は・自分で創るもの。
あぶく銭しか・残らないかも・しれません。
でも、
それが・私の働いた事での・証し・なのです。
私は、
父の戒名を・自分でつけました。
遺骨も、
遺品も、
父に縁のある品・1つ、
私は持っていませんでした。
ただ、
三枝家の墓地に、
祖父母の墓石と・並んで、
父の戒名を刻んだ・墓石を建立し、
僧侶に・経で・供養し、
父の魂が、
此処が・新たな・家であることを、
報せて頂きました。
それから・毎月、
私は・墓地の掃除に・出かけています。
毎朝、
お仏壇の中の・父の位牌と、
話しを・して、
1日を・スタートさせます。
昨日の日曜日、
父の命日を直前に・控へ、
情けなくて、
情けなくて、
悔しくて、悔しくて。
物置の段ボールを・引っ返したのです。
ダダっと・崩れた段ボールの蓋が開き、
1冊の・アルバムが・顔を出しました。
捲ってみると、
父と息子が、
命と命を賭けた・相剋が生じることになる・随分と前の、
幼少期の私時代の・父の写真が・ありました。
何故・でしょう?
ポロポロと、
涙が・たくさん・出ました。
父の生きた環境、
父の性格、
私は・責めすぎたと・思います。
父を・軽蔑した態度を・とったと・思います。
孝行したい時には親は無し。
昨日、
私は・思い知ったのです。
たった2枚の写真が、
私と父の・残った・形です。
1枚は・額に入れて・お仏壇へと。
もう1枚は、
次の日曜日に、
父の墓地に・埋葬しようと・思って・います。
最近の私は、
自分でも・よく判りませんが、
日に日に、
覚悟が生じてくる・自分を・自覚しています。
男の度胸・ナンでしょうか。
父への、
少しばかりの・ケジメがついて、
外へと・出、
陽光を・浴びました。