何気ない台詞から学ぶ


他人からしてみれば真夜中という時刻なのでしょうが、

今日も自然と、この頃になると目覚める癖がついてしまいました。

それこそ日中は、診察している他の時間は娘たちがベッタリと張りついています。

末の娘も小学生へ上がりましたが、それでもお昼前にはニコニコと診療所へと帰ってきます。

他人からは想像できない程の寂しがりやの私ですから、娘たちが常に一緒に居てくれているから

現在でも、こうして仕事に精を出せていられるのだと、

こうした娘たちの支えに感謝しつつ、

やはり私の歳ともなれば、孫の歳のような子供の通常の営みには頭がのぼせて仕舞うこと度々です。

静かに独りという時間は、必要なようです。

寂しがりやで、独りの孤独は嫌ですが、といって煩いのも嫌だと云うのは

甚だ勝手と云えるでしょう。

ですから私は、家族の寝静まる静かな時間に起きて独りの時間を、

とは言え、家族の寝息を肌で感じて決して寂しさは感じない時間を過ごすのが好きです。

今も海外の論文を一編、読み終えた処です。

このような積み重ねを日々続けることが、私らのような患者さんを診察する仕事の人間には

大切な、またもうひとつの仕事だと思っています。

但し歯科の文献に目を通す日常は、ある意味仕事でもありますから

心の栄養にはなりません。

ですから他に読書のために少しの時間も、自分のために用意していたのですが、

この頃の忙しさと、娘たちのかしましさに頭がのぼせ上がり、

一月、二月程は読書などをする余裕もなく、

また娘たちと書店へと出向いても、

娘たちへは本を買い与えますが、自分の読みたい本を選ぶなどと言った心持ちには到底なれない

いっぱいいっぱいの自分に焦りを感じます。

今、認めながら、ふと漱石の文体に触れたくなりました。

私個人的には、荷風の文体を好むのですが、

時に珈琲を、である時には茶を欲するように、

今の私の脳細胞が、漱石の文体の何かを求めているのでしょう。

後程に、書棚をひっくり返して、頭に栄養を注ぐ手当てをと思っています。

この間の、娘たちのつかみ合いの大喧嘩に、ホトホトまいっていましたが、

昨日、私の評価では常に冷静沈着なる、到底争い等とからは程遠いであろうと確信している

スタッフの宮田君から、娘たちのつかみ合いなどは、最後までほったらかしておくようにアドバイスを受け、

怪我でもしたらどうするものか?等と、今考えたら粗末な問いかけをしたら、

自分の兄弟なんぞは骨折したこともあると、自然に答えるのにとても驚いたのです。

それこそ、私の時代には、そのようなことは日常茶飯でありました。

叩いて、叩かれて、痛みを感じて、喧嘩の加減を覚えたモノです。

但し、若い女性から、このような台詞を聞くとは思わず、

男兄弟のなかで育った娘は、ある意味恵まれていると感じました。

今は男が草食と言われる体たらく。

女が強くなったと言われます。

私にはよく判りませんが、男と女の物事の取り扱いが同じで筈な訳はありません。

そんな処を、女ばかりの環境で過ごす娘たちからしてみれば

父たる私の奇妙な所作は、将来少しは役にたつだろうと、

何気ないスタッフの台詞から、また学ばせて頂く未熟な私でした。