母 の 引っ越し


高松高校の 第1期生 の 母 は

高校卒業 まで

この 讃岐で 過ごしました。

会社経営者で あった 母が 晩年 引退した あと

東北地方の 寒村の 粗末な 老人施設にて

独り で 暮らす ことは

苦痛 だった こと でしょう。

文化圏 の 違い

生活水準 の 違い

私は 長い間

この母 とは 遠ざかって おりました。

ですから、

母の 長い 年月の 経緯は 知りません。

が、

私の 所在を 探して 探して

連絡を とって きた 母 を

1年 近く 受け入れる 決意が できません でした。

しかし、

私 が 幼い頃 の 母 との 思い出 が

脳裏を よぎる 度に

苦しく なりました。

ついに 私は 決意 したのです。

赦す こと が カトリック信仰 の 原点 ですから。

当時の 母は まだ 電話で やり取り できる 能力が ありました。

毎日 毎日

電話にて

母 救出 の 手筈 の 打ち合わせ を 繰り返し

遂に

母の 暮らす 施設へと 向かった 当時を

時々 思い 出します。

86歳 に なった 母 は

面影 は 消え失せ

乞食 の よう でした。

持って いた 所持品は

ビニール袋 1枚 の 中 の ガラクタ だけ。

バセロンコンスタンティン や パティックフィリップス など の 腕時計を

時 その 時々 に 合わせて。

銀座和光 と ミキモト が 好きで

そんな 母の かつて の 面影は 消え失せ

一人 の 粗末な 老婆に なって いました。

ショックを 受けた ことは 云う までも ありません。

健康保険証 介護保険証 通帳 印鑑

母の 身分を 証明する 品 は 全く 持たされて おりません でした。

高松市内に 母が セカンドハウス として 所有して いた

マンションの 名義は

既に 第三者 に 変えられて おりました。

マンションの 中には 母の 私物も ありました。

電話にて

その 第三者に 問いかける 母。

相手は 全く 応じません。

落胆する 母を なだめ

高松市に 連れて 帰って きた のです。

その 母 も

あと 半年 で 90歳を 迎えます。

母 の 脳裏には

私 と 配偶者

そして

ヤッパリ 夫婦 なんですね。

父は 既に 亡くなって おります が

母は 未だ 生きていると 思って います。

母の 記憶には この3人しか ありません。

今では 穏やかな 余生を 過ごして います。

私が ワガママ なん ですね。

遂の 住み家 は

瀬戸内の 見える 処 でと と。

今日は

母の  引っ越し です。

母の 部屋から

高松の 港

瀬戸内を 行き交う 船

そして

母の 好きな 屋島 の 光景が 見えます。

私の 自己満足かも しれません。

でも

そう して やりたい の です。

私は 今まで

関わって きた 人間関係 全て に

自分なりの 誠意を 費やした 自負が ありました。

が、

通じない

当たり前

感謝 どころ か

もっと もっと と

足らぬ 足らぬ の 不満ばかり で

責められて こられた 無念さ 悔しさ 情けなさ を

背負って いる のも 事実です。

その 人たちに 対して 悔いは ありません。

今は

家人 と 母 が

穏やかな 日々を 過ごせる ように。

そんな こと 考えながら

歯科医師 として まっとう に 行きたい と。