先日、
和歌山医科大学 元学長であった 小山先生と 長話に 講じていました。
先生も 敬虔な カトリック クリスチャンで いらっしゃいます。
なんで
こういう 話しに なったのか 忘れましたが、
人は ある時期
自己を捨てて
学問に 没頭する 期間が 絶対に 必要であること。
書物を 漁るように 読み
ブラックホールのように 引用出典を 探し求め 吸収し
無限大の 学問に 身を置くこと から来る 不安に 耐えて
そこで 初めて
人たる 教養が 身に付く モノだと。
偏差値偏重 の 考えでは 決して 無いのだけれども
先の 環境を 過ごせば
自然的に 偏差値は 高くなるものだと。
大学入学時の 偏差値は
あくまでも
18歳までの
過ごし方の ひとつの 評価でしか 無いのだ けれども
その後
よほどの 大きな キッカケが なければ
人は 早々 変われる モノでは ない。
変われる とすれば、
環境の 激変か?
恵まれた 師匠との 出会い
あるいは
苦しさ から 求めた 正しい 信仰との 出会い か?
小山先生も 未だ 学問の 中に 没頭されて おられます。
カトリック教会の 古代の 聖典
私などには 難しく過ぎて 到底 及ばない
2000年 以上 前に 生きた
さまざまな
今では【聖人】と 称えらる 方々の 信仰に 対する 手紙などの
読み解きに
学者としての イマジネーション と 理論構築の 最中の ようでした。
先生は
医師であり
それも 和歌山医科大学の 元学長ですよ!
いわば
自然科学に 身を置く 学者の 頂点を 極めた お方。
学者が 宗教?
そのような 疑問を 持つ 方々は
一心不乱に 生命体を 学問した 経験が 無い のでしょう。
生命体について 研究し 考えて 考えて
突き詰めれば
目には 見えない 神仏の 存在に 行き着く のです。
そこから
今 そして 今後の 人生を どのように 生きるのか!
正しく 生きる とは どういう ことか?
その 積み重ねが 人の 人たる 所以だと 思います。
資本主義社会の 中で 翻弄されつつも
経済優先主義の方は 愚かであり
それが 結果
そんな 虫の良い 離しは なく
最終的には 自己の 頚を絞める
経済に 泣く 結末を 迎える でしょう。
経済とは あくまでも 後から 就いて 来るものであり
社会貢献を 優先すべきが 人の 人たる 神仏の 意思だと
【還暦】を 迎えた 今朝
1番に そう 思った のです。
さぁ 人生の 最終段階に いよいよ 入った 自覚を 再認識しました。
男 三枝
最後の 勝負に 挑みますか!