医師と宗教の関わり


宗教と政治についての、

自己意見は、

控えることが望ましいと、

歯科医師に成り立てのころ、

上司や先輩から教わりました。

それは、

患者さんが減るキッカケになり得るからというのが、

その訳でした。

あれから30年以上経過しました。

私の人生は、

歯へ情熱を注ぐ。

ただそれだけであったと言って良いでしょう。

政治向きの話しについては、

今の政治は、

古来の、

人類が誕生し、

水と土地を治めることから始まり、

神の声と関わりながら、

豊穣を祈るという神事と一体となり、

それが国造りの手段へと進化した政治とは

大きく異なっています。

政治について語るほどの知識もありませんし、

政治ができる政治家の名前も知りません。

宗教にかんしては、

ある時から積極的に、

自分の考えを表現することが、

医師の義務だと考えるようになりました。

他宗教の医師から診察を受けるのは嫌だということを

防ぐように、

自分の宗教を語ってはならないという意見を持つ医師の

了見の狭さを悲しく思います。

患者さんをお客さんと観ている証です。

医師は、学・術・道の鍛錬を

生涯、

自分が自分に要求し続けて、

葛藤の人生を過ごすが定めです。

何処のホームページを見ても、

簡単に【院長の哲学】って単語が

使われています。

そういう場合に限って、

哲学の定義とは無関係な、

単なる想いでしかありません。

哲学とはもっと重い意味合いを持ちます。

哲学は、宗教無くして語れません。

技術を極める。

この姿勢は、

私にとっては日々の習慣となっています。

決して特別なことではありません。

学問を続けてゆくことも、

専門職の義務の一つです。

最後の【道】について。

患者さんサイドが、

ご自身の大切な身体を預ける医師を

ホームページの経歴だけから判るんでしょうか?

大切な患者さんだから、

私は全てを曝しているのです。

カトリックにはカトリック独自の

原理原則があります。

人の幸せを祈る。

人の幸せを祈る。

苦悩も神さまからの恵みの導きだと。

此処にカトリックの医療との関わりを

大いなる生きる道しるべだと。

私の洗礼を公開したとき、

沢山の祝福を頂きました。

師匠からは聖名と、

お身内の描かれた聖父の肖像画を。

これは私のこれからの人生の大きな指標となってくれるでしょう。

また、

ブログの読者である医療人の方々からも、

多くの祝福を受けました。

実は私も洗礼を受けていたんだが、

人には言えなかったんだよ。

そういう旧来からの知人が多い事にも驚きました。

そのような方々は、

歯科会、医科会ではビッグネームの方々ばかりです。

三枝先生、よく言ってくれた。

あなたは勇気があるわ!

皆さんが口々にされました。

そうでしょうか?

私の信じる道を患者さんに語る。

私にとっては、

至極普通のことでありますのに。

医師が白衣を纏うのは、

無垢の心で患者さんを抱擁するためです。

無垢なことは、

患者さんのために祈りを捧げる。

これが医師としての【道】だと信じています。

診察室前の小スペースに飾った師匠からの贈り物。

聖ヨゼフの肖像に、

聖母マリアさまの御像が加わりました。

皆さんからの祝福受けるた贈り物です。